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20200722『新聞読んで語ろう会』例会の報告

 

今回の参加者は10名でした。(30人用の部屋で、16脚の椅子を用意)

(このところの)いつものように、窓と入り口のドアを開放しての例会です。

 

今回最初の題材は、やはりCOVID19関連の記事から始まりました。

2ケ月ほど前の5月20日の朝日新聞

《 機能不全あらわ 危機に弱かった「1強」政権 》

という記事。

 

7年前から「感染症対策の充実」を訴え続けて来た共産党の田村智子氏の先見性のある問題提起の紹介から始まり、その訴えとは逆に予算を減らし続けた現政権の政策の結果、今回の感染症に対応する人員も物資も間に合わない状況になっていて、重要なはずのPCR検査数が一向に増やせないという内容の記事。

 

2ケ月前の記事と言いながら、実は今もほとんど状況は改善されないままになっているという懸念が多くの参加者の意見でした。

 

最も不可解なことは、やはりなぜ日本では未だにPCR検査を他国並みに増やさない(増やせない)のだろうか?という事です。

この記事が書かれた時点では、確かに専門官の人員数や試薬の不足が原因だったと言っても説明がついていたかのようにも感じます。

しかしその後(2ケ月もたった今)、政府は検査件数を大幅に増やす(増やした)と言っている割には、そのキャパ(最大許容量)自体も世界のレベルから程遠いばかりか、キャパを目いっぱい使って検査をしているという形跡もないのは何故なのだろうかという疑問。

 

「なぜPCRの検査数を増やせないのか?」というテーマが、翌日朝の報道番組の中の『玉川徹のそもそも総研』でやるという予告があり、見る事が出来る人は見ましょうという話になりました。

 

そしてそうした検査不足状態のまま、すなわち誰が感染しているのかが分からず、自分さえも信じられない中で政府キャンペーンの「GoToトラベル」を前倒しで始めるという事に対する懸念も出ました。

 

特に首都圏、その近接地域からの旅行者には来てほしくない。怖いという意見が多く出されました。

 

しかしながら連絡係(Y)が思うに、では旅行をする人を悪者扱いするのかと言うとそれはもしかすると違うような気もします。

 

政府が、「あなたは感染者ではないのだから、感染者のいないどこそこの地域、施設には自由に行っても大丈夫ですよ」とお墨付きを出したうえでの経済推進であればほとんど問題はないでしょう?

そうしたお墨付き(PCR検査による陰性証明のようなもの)を積極的に出そうという姿勢はまったくなく、マスコミを使って「経済も大事、経済だ!経済だ!」と国民を洗脳状態にして、さあキャンペーン開始ですと始めているような気がしませんか?

 

そうした言わば政府の『あおり運転』で突き動かされる様に旅行する人も、それで旅行者を受け入れざるを得ない人々も、「こんな政府を持った国民は運が悪い」という事になるのかも知れないと捨て鉢のような感じになってしまいます

 

国民同士が反目し合うという状況ではないはずだと(Y)はふと思うところです。

 

 

 

COVID19関係という事で引き続き7月21日の北海道新聞で「道内の病院の危機」を伝える

《コロナ道内病院困窮 

 一般病床休止で減収億単位 

  4月前の経費 補助対象外に》

という記事も題材に語りあいました。

PCR検査数を(表向きでは増やしていると言いながら)現実には一向に増やさないという方針の不可解さもさることながら、感染拡大阻止の為や患者救済のため、更に従来の通常医療の確保の為に国はほとんど何もしてこなかったという事が分かって来たという内容になっています。

結果として未だに医療現場の自主性に任せているという事が、現場の困窮という現実で表面化して来ています。COVID19感染者を受け入れた病院ほど経営が困難な状況になり、従来通りのみの病院でも患者が減る状況で経営悪化になるという事で、いずれにしても病院経営の困窮が進んでいるようです。

 

危険な業務現場にもかかわらず給与が減る事から、ストライキをして訴えたり大量の退職者が出始めてもいます。

 

語り合いの中で、医療現場が窮地に陥っている事を再確認しました。

 

また、現政権がCOVID19対応では機能不全を起こしているという記事について、先の「北朝鮮のミサイル発射」問題の時はJアラートを鳴らすなど、それなりに何か対応をしていたのに今回はまるでなにも出来ずに、まさに機能不全の状態だと思うという意見が出ましたが、ミサイル問題の時に安倍政権が本当に機能していたのかどうかは分からない。確かにJアラートは鳴らしたけれど,それがどれだけの意味があったのかと言うとほとんど何の意味もなかったと思うので、そういう点では当時だって機能不全状態だったのであって今とほとんど何も変わらなかったのではないかという意見も出ました。

 

 

最後の題材は「再生可能エネルギー推進と、非効率石炭火力の廃止計画」に関する北海道新聞7月14日の

《再生エネ加速策も検討 経産省石炭火力縮小議論開始》

という記事。

 

事実上各地域で独占的に電力供給をしている大手電力会社における、非効率石炭火力発電による発電の割合などの統計的な数値を紹介しながら、非効率石炭火力発電を廃止するという経産省計画で各社にどのようが影響が出てくるのかという内容を中心に、新規参入型の電力会社の言い分や、再生可能エネルギーの比率拡大への課題なども書かれている記事。

 

この記事を持ち込んだ理由は、これからは再生エネルギーをもっと増やす方向で考えるべきなのだろうという事を考える上でもこの記事を題材にしてみてはどうだろうかという意図での提出という事です。

 

自然エネルギーによる発電を主用電力にするという方向性がまだまだ日本では少ないのではないか?

 

自然エネルギーによる発電が不安定である事を理由にして一定以上の発電を受け入れないというのは、既存の大手電力会社の既得権を守るというだけのものだと思う。

 

ドイツなどでは再生エネルギー化の方向性が強く出ていて、不安定な発電でも上手く実用化出来るようにしていると聞くけれど、ドイツで出来る事なら日本でもやろうと思えば出来るはずなのに。

 

非効率石炭火力発電を止めて新たに高効率の発電所にすればCO2発生は相当減るという事なのかどうかについての疑問に対して、多少は減るらしいが根本的にCO2が出なくなるという事ではない。

 

最近の(毎年、1年の間にも100年に1度のような事が何度も起き始めている)異常な気象は、地球温暖化が原因なのだろうか?

その地球温暖化は、人間が造るエネルギーのために排出されたCO2が本当に原因なのだろうか?

 

地球の歴史上、人類以前の時代にも火山などの多発でCO2が多く排出され温暖化になった時代もあったらしいけれど、その時代温暖化していく年数はとてもゆっくりと長い時間がかかっていて、産業革命以来の(地球の歴史としては一瞬のような)短期間でCO2が一気に増えた事を考えると、やはり人間が温暖化の原因を作ったと考えるべきだという意見。

 

科学的な説明をしながら、地球温暖化と人間の活動に因果関係があるという証明はなされていないと主張するグループがいるという事の確認。

 

更に、温暖化そのものも起きていないという考えを主張するグループがいるという事の確認。

 

この件については、語ろう会でも昨年8月の『論座』の記事

()()()(じゅ)(せん) 東北大学東北アジア研究センター/環境科学研究科教授の執筆

《ゾンビのような温暖化懐疑論(上)(下)》

https://webronza.asahi.com/science/articles/2019081200001.html

https://webronza.asahi.com/science/articles/2019081300007.html

 

を題材にしたことがありました。

この記事の結論は、地球温暖化は人間の産業拡大によるものと決定できるほど、すでにはっきりと科学的に証明されているという事です。


同執筆者の原発ゼロと石炭火力ゼロは両立できるのか?》という記事も参考に

 https://webronza.asahi.com/science/articles/2020021700005.html



変われない日本

3.11の災害と原発事故発生。

地球温暖化による異常気象の多発。

ウィルス名SARS-COV-2という新型のコロナウィルスによるCOVID-19の世界的蔓延。

国のあり方や人間の生き方を変えなければならない時期は何度も来たと思います。

 

3.11後に、世界の多くの国が脱原発に舵を切り替えました。

日本はこの事故から教訓を得たのでしょうか?

日本人の多くの人も、3.11がきっかけで考え方が変わったと言います。

個人では変わった人もいたのに、国はどうでしょうか?

原発をなくすどころか、まだまだ続けるつもりのようです。

 

地球の温暖化が私たちに何かを突きつけている、そして新しいウィルスによる感染症も私たちに何かを突きつけています。

 

そういう何か漠然とでも突きつけられているという事を考える時期が来ているのだろうと思いませんか?

きっと考える人はまた大勢いるでしょう。変えなければならないと。

そう思うのだけれど、私たちの国は変わる必要性を感じ取っているように見えるでしょうか?

 

現代の国のあり方、世界のあり方に警鐘が鳴らされ、人々の求めるものにも変化が促されていると、そう考えるのは杞憂でしょうか?

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塵も積もれば山

先ほど、『新聞読んで語ろう会』の代表N氏より、メールが入りました。

 

次回の2020年7月22日の例会が、通算でなんと100回目になるという事なのだそうです。

 

本年4月と5月にCOVID-19の影響で4回の中止を余儀なくされましたが、それまで2週に1度の隔週開催をほぼずーっと維持して来ています。

次回は節目となるという事です。

参加された皆様、有難うございました。

 

勿論、次回は「記念の特別例会」をするという事ではありません。

いつも通りの参加をお待ちしております。

 

それから、『新聞読んで語ろう会』連絡係のこのブログを始めてちょうど1年が過ぎました。

1年間で44記事をアップしています。

 

読んでくださった方、有難うございます。

 

 

 

 

 

2020年7月8日『新聞読んで語ろう会』例会の報告

 

エルプラザが全面閉鎖を解除した後、6月から再開した例会もこれで3回目となります。

6月10日6名、24日9名と続いて今回は12名の参加となり、徐々に参加人数も回復してきています。

 

COVID-19関連の記事

今回は、前回2番目に取り上げた北海道新聞『コロナ・通常診療 両立苦悩』という記事で語り合った中で出て来た、コロナ関連の各種助成金や融資金などの種類、支給基準や申請に関する疑問が多く出た事を受けて、その補足となる記事3つを題材に語り合いを始めました。

 

道新4月4日「雇用調整助成金の申請急増」

道新4月17日「休業補償 なお拒む政府」

道新5月24日「コロナ支援 制度複雑」

 

今回のこの3記事は、いずれも4月5月のもので、そのころの事を思い出すと「いったい何が起きているのか?どうなるのだろうか?」とい事がよく分かっていなかった時期で、そのころの記事はさすがに記事自体も分かり難いと言うか、政府が出している支援等の要件の複雑さがあまりにもひどく、支援がすぐにでも受けられそうでいながら、実際にはなかなか受け取る事が出来なかった、その始まりのころの記事という事になります。

 

後で考えると、日本政府がこの事態の深刻さや将来に対する見通しについて甘く見ていたのだろうという事が透けて見えるような政策だったことが、見えてきます。

政策のほとんどが実質的ではなく、いわゆる『やってる感』を演出しているので、制度が多岐にわたっていていろいろ利用出来そうに見せかけてはいるけれど、現実に利用しようとすれば複雑であるとかで、断念した人も大勢いたという事がそれを裏付けました。

 

少し前の記事を時間をおいて見ると、(分かり難い内容に当時は必死で喰らい付くような読み方をしていたけれど)そういう事が冷静に読み取れるという事もあるようです。

 

 

給料を補う雇用調整助成金

https://www.mhlw.go.jp/content/11600000/000639652.pdf

https://www.mhlw.go.jp/content/11600000/000639657.pdf

 

持続化給付金

https://www.jizokuka-kyufu.jp/doc/pdf/r2_application_guidance_proprietor.pdf

https://www.jizokuka-kyufu.jp/doc/pdf/r2_application_guidance_company.pdf

 

COVID-19を災害指定にして各種支援金を迅速に支給することが野党側から提案されたけれど、結局実現しなかったというお話も出ました。

 

記事の中では各国の支援金支給の状態も載っていますが、我が国のやり方はそれに比べてあまりにも時間がかかり過ぎた、わざわざ時間がかかるようにしていたという印象です。

 

「普天間問題は日本の問題」


今回2つ目に取り上げたのは、日刊ゲンダイで4月10日に取り上げた「普天間問題は日本の問題」という記事。

軍事アナリストの小川和久氏が出版した新書「フテンマ戦記」にちなみ、世界一危険と言われ続けている米軍普天間基地の移設に関わる出来事の歴史的な流れの中での主張を小川氏に聞くインタビュー記事です。

 

危険除去のための普天間基地の早期移設という必要性がいつの間にか辺野古新基地建設の話へとすり替わってしまった事に疑問が集中しました。

 

その辺野古基地は建設にどれだけの時間と費用がかかるのか未だに正確に見通せない現状となりました。

 

そうした流れを止めて、小川氏が従来から主張していたように使い勝手の良いしかも建設費用が極端に少なくて済む当初案の『キャンプハンセン』地区での建設をした方が良かったはずなのに、何時如何なる理由で辺野古埋め立て案が出て来たのか?という疑問。

 

以前の『新聞読んで語ろう会』ではなかなか見られなかった光景ですが、疑問が出ると数名の参加者がその場でスマホ検索してくれるようになって来ました。

 

結局辺野古移設案が出て来たのが小泉政権時代であるという事が分かりました。

 

それを考慮すると、今は『パソナ』という派遣事業を手広くやっている企業の代表をやっている竹中平蔵氏が、当時は経済指針の決定に大きな影響を与えるようになっていた時期(強く新自由主義を推進した時期)であることから、新基地建設を「普天間危険回避のため」という視点から「事業がらみでの業者利益増大」という視点に切り替わったのではないだろうかという意見。

辺野古は完成しなくても良い。永遠に続く土建事業という点で理想的な場所と考えるようになって来ているのではないだろうかという意見。

 

そこで出て来たのが税金の使途。

 

税金の使途については「ワセダクロニクル」のJUDGIT(ジャジット)画面から細部にわたって検索出来るようになっているという話になりました。

  

https://judgit.net/

この画面の検索欄に、例えば「 パソナ 」と入れて検索すると

https://judgit.net/?keyword=%E3%83%91%E3%82%BD%E3%83%8A

この画面になります。

 

パソナグループそれぞれにどのくらいの税金が渡っているのか?さらに細かく簡単に先に進めるのですが、そこでどういう事業がなされているのかも分かるようになっているのです。

 

税金が何に(どういう事業目的に)どれだけ使われているのか?そういう事に興味のある人は是非このJUDGIT(ジャジット)を活用し参考にすればいいのではないでしょうか

 

最後に、この記事では、辺野古への移転ではなくキャンプハンセンにしておけば費用も少なく、また沖縄県民の納得も得られたはずだという内容ですが、やはりそもそも沖縄の米軍基地負担が多すぎるという観点では、沖縄の中で場所を替えるというだけの考え方自体に問題があるという意見が出ました。

 

幸福度を数値化

 

最後に取り上げた記事は、6月29日の日本経済新聞「日立、幸福度を測るアプリ提供で新会社」という記事。

6月30日付けITメディアというニュースサイトから同じ題材の記事「日立、従業員の”幸せ”見える化する新会社 幸福度測定でマネジメント支援」も参照しながらの語り合いです。

 

スマホアプリや(身に着けた)ウェアラブルセンサーからの情報を分析して、従業員の幸福度をチェックして、幸福度を高めるアドバイスをするという内容。

 

日立の開発担当者の話が以下のURLから見ることが出来ます。

https://social-innovation.hitachi/ja-jp/case_studies/happiness-planet/

 

このアプリで設定している幸福度を向上するという事によって、企業実績が上がるのです。

皆が幸福になりながら、企業もまちづくりもうまくいくという話です。

従業員が幸福度が上がったうえでの話だから良い事じゃないか、という発想のようです。

 

しかしどう見ても人間の幸福を追求するという事が目的ではなく、目的は企業実績向上という事になりますが、皆さんも日立という大会社がこういう事を本気で考えて新会社まで立ち上げたという事にとまどっています。

 

こういうアプリを導入して社員に強要するような会社には入りたくないという若者の意見。

さらに、こういうアプリが必要だという会社の従業員の生き方そのものに問題があるのではないかという疑問。

自分が幸福かどうかをアプリが判定してくれるという事に違和感を感じない社会が近づいてきているという不安。

 

本来、「幸福」というものは非常に哲学的な奥の深いものでいろんな哲学者が「幸福論」を論じているのに、それを簡単に数値化できると考える薄っぺらな発想で、人を人とも思わない、人間の求める幸福とはかけ離れた企業優先のような発想の中に「幸福度」などという言葉を用いることへの懐疑心が語られました。

 

今回は以上です。

2020年6月24日 例会報告


 

COVID‐19禍で再開した第2回目の例会を、2020年6月24日(水)に行いました。

 

従来からそうでしたが、例会からちょうど2週間後の開催という事です。

2週間というとCOVID‐19の感染があったのかどうかを判断する14日間の経過観察期間と一致するという事になりますが、前回出席された皆さん元気に参加されました。

という事は、前回の例会は「セーフ」だったと判断してよいのでしょう。

 

なんとも心もとない判断ですが、ちゃんとした検査が受けられない市民としてはこういう形での判断で胸をなでおろすというのが精一杯という事になります。

 

最近では、保険適応外で個人的に(わずか)3万5千円の費用でPCR検査を受けることが出来るようになって来ているような事も言われていますが、お金持ちはどうぞやって下さいというところでしょう

 

さて今回は9名の参加という事で、少し参加者が戻って来ているという状態での例会です。

 

最初の記事に入る前に、雑学?的な確認。

 

前日の『6月23日は何の日』だったでしょうか?という質問

 

1. 沖縄慰霊の日。75年前に沖縄での戦いが終わり占領された日という事。

私たち参加者の中にはこの日の事をリアルに記憶している人はおりませんが、毎年この日だけは悲劇的な沖縄の敗戦・終戦・占領にまつわる多くの報道がなされてその都度再確認させられるのですが、報道がこのように戦争の残忍さ悲惨さを伝える日が、この日を含め年に数日しかないという事にいつもまた疑問を感じてしまいます。

二度と戦争をしないという誓いを憲法に書きとどめた国であるならば、報道もそれに順じた態度を日々行うべきだろうと思います。

 

2. もう一つの重要な記憶すべき日。それは大幅に改定された日米安保条約の発行の日。今年はちょうど60周年という節目の年です。(いわゆる60年安保闘争があった時の事です)

二度と戦争をしないと誓った憲法を持ちながら、その憲法を軽視無視して再び戦争への道が開かれる憲法違反のきっかけに踏み込んだ日とでも言える、国の誤った判断をした記念日。

この日の事を報道でもいくばくかの記事にはされたものの大きな特集記事とはなりません。

参加者皆で、その60年前という時代について、当時の事を覚えている人は、どんな記憶があるのかをちょっとだけ語り合いました。

 

 

さていよいよ記事による語り合いです。

 

最初の題材は広島の河合議員夫妻の公職選挙法違反に関する北海道新聞6月19日の記事で、元東京地検検事で弁護士の郷原信郎氏の寄稿文、『現金供与の出所に注目』という記事です。

 

河合議員夫妻に1億5千万円という通常の選挙資金の10倍にものぼる巨額の運動資金が自民党のどのようなところからどのような名目で渡されたのかについての、郷原氏の考えが書かれた内容。

 

この記事と前後して(6月23日)、ネット番組で郷原氏が語っている事も参照するとよりわかりやすいでしょう。

https://www.youtube.com/watch?v=r96Tb4X8H70

 

私たちの語り合いでは、この河合議員夫妻の公職選挙法違反による逮捕の件に関して毎日のように多くのニュース報道がなされ、いろいろな憶測記事や新事実のような情報もある中で、それぞれどういう事に注目しているかという事について語り合いました。

 

記事の提出者は、記事に沿って「1億5千万円」の本当の出所がどこなのか?という事に注目していますが、ほとんどの参加者は自民党本部からの金であることは間違いないと思っているようでした。

 

安倍首相に一定の距離を置き批判的な発言もしていた当時の自民党現職議員を(反安倍に対する見せしめであるかのように)落選させるために使った買収資金だったのではないかという意見が多く見られました。

 

この記事の中に「交付罪」という言葉が出ていますが、これはどんな罪なのだろうかという疑問が出ました。

記事の郷原氏の説明を確認しますが、「要するに自民党(の誰か)が河合杏里氏の選挙運動において、その選挙運動員や有権者に対して不正な金銭供与(買収など)をすることを目的として河合氏側に多額の資金を投入するとそれは交付罪に当たる」というような事なのだろうと読めます。

この「交付罪」が成立した場合の量刑についてはなかなか見つけられませんでしたが、選挙に関係する犯罪の量刑は以下のサイトで確認できます。

http://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/units/243061/1-20151106103440.pdf


 

 

二つめの記事に入る前にまたちょこっと雑学で語り合い。

 

新聞報道などでも「コロナ、コロナ」と言うのだけれど、正式名はCOVID‐19です。

さて、このCOVID‐19とは何を表わした名前でしょうか?

 

正解は、「感染症の名前」という事になります。

「ウィルスの名前ではないのか」という声。

 

では今回のCOVID‐19という感染症を引き起こしているウィルスについている正式な名称は?

 

正解はSARS-CoV-2。

SARS-CoVというウィルもあり、これは前回『サーズ(SARS)』という名で恐れられた感染症の時のウィルス名。

SARSというのは『重症急性呼吸器症候群』

CoVはコロナウィルスという事

 

今回名前の最後に「2」と付いているのは、当初COVID‐19が前回のSARSとは姉妹的な感染症ではないかと考えたからという説もあります。

 

SARSの時にはウィルスの威力が強すぎたと言うのか、宿主が早期に発症重症化し死者も多く出たけれど感染が広がる前に隔離されたり宿主の死亡で自らも消滅するなど比較的早期にパンデミックもおさまってしまった。

この時にはワクチン開発も出来ないままの終息だったけれど、ワクチンが間に合わなかったと言うよりもワクチン開発に利益感がないと判断した大手製薬会社が皆開発を止めてしまったという話もあります。

この時のSARS-CoVというウィルスに比べ今回のウィルス(CoV-2)は、潜伏期間も比較的長くその間でも感染力がありその後症状が強く出る人から無症状の人まで多様な症状があり、更に軽傷症状が続いたりいったん回復傾向になった後急激に症状が悪化して重症化重篤化するなど、なかなかその居場所が特定されないまま感染が広まるという点で、明らかに(人間社会に脅威をもたらすという点では) SARSの時よりも進化しているように見えます

 

 

SARS-CoV-2ウィルスに関する最新情報や、感染症対策や検査の状況などに関しての児玉龍彦先生の説明は以下のサイトです。

https://www.youtube.com/watch?v=y6W83Y85zJs

 

 

 

さて次に取り上げた題材ですが、6月21日の北海道新聞『コロナ・通常診療 両立苦悩』という記事です。

 

従来効率良く運営する事を目指して来た医療現場で、COVID‐19感染が疑われる患者を受け入れる病院が担って来た分が他の病院にまわされるなどで負担が急増し、救急患者の受け入れ先を見付けるのに時間がかかってしまうケースも急増したことを実例を挙げ紹介し、医療体制の今後の問題点について問う記事です。

 

医療機関がCOVID-19患者の受け入れをする事によって、病院経営が赤字になってしまうという現状では、患者受け入れ病院がなくなっていく恐れがあり、今後想定されている感染再拡大時に受け入れ病床が不足して医療崩壊になるのではないかという意見。

 

報道上は目立たないけれど、今回すでに医療崩壊は起きていたのではないかと思うという意見。

 

医療現場に全く余裕がないのは何故なのかという疑問の意見。

 

北海度でも全国的にもそうだと思うのだけれど、地域病院の統合や保健所の数を減らして来た事で、何もない通常の状態ではちょうど効率のいい医療体制だったのかも知れないけれど、COVID-19のような感染症が起きた場合はすぐにパンクしてしまうのだろう。今回の感染症が仮に収束したとしてもまた別の感染症が今後起きるという事が想定されれば、今の医療体制ではだめなのではないだろうかという意見。

 

何故そんなに病院や保健所を減らしてきたのかという疑問。

福祉の予算削減の為だったと思うという意見。

 

そこから、自粛に伴う給付金など国や自治体から支給されるお金についての話になり、制度の事とか手続きの事などについての語り合いとなりました。

 

ともかく申請手続きが複雑な事、申請が受け付けられるまでたどり着いてもその後の入金がとても遅いという事についてのぼやきが多く出ました。

 

さらに、感染者の情報通知が送られるアプリを使った情報通知システムでは、感染者と判明した人と濃厚接触した可能性があるという通知を受けられるけれど、その通知が来たからと言ってPCR検査が受けられるわけではないらしいという話についての真偽が語り合われました。

 

医療の経営状況も含め次の記事に移ります。

 

6月4日の北海道新聞、作家平川克美氏が寄稿した各自核論「路地裏の資本主義24」

 

今回の感染症パンデミックが弱者を直撃したが、国としての役割をどう考えるかによって対応が分かれた。

対応が上手く行った国はどちらかと言うと社会民主主義的な国と独裁的な社会主義国であり失敗したのはグローバリズムを推進し新自由主義的な方向に進んだ国、という結論。

 

語り合いでは、この社会主義的なやり方を取り入れた国が成功したという筆者の見方を強く批判する意見が出ました。

自分は若いころは資本主義は悪で社会主義が善だという風に騙されて生きてきたような気がするけれど、それは嘘だったと思うという判断を土台としての考えで、「資本主義が悪」と言うのではなく「良い資本主義と悪い資本主義」があるという事だと思うという意見。今世界の経済はどのみち資本主義的に動いているのだから資本主義を悪と決めつけるのではなく良い資本主義の国になればいいのではないかという意見です。

 

良い資本主義の国というのは?具体的にはどんな国ですか?という質問に対しての答えは「皆が幸せになれる国」という事でした。

 

結構難しい巷の語り合いとなりましたが、もうちょっと詰めなければならないと思いつつ時間切れとなりました。

 

以下のサイトでは「幸せ度」が具体化して来ていますが・・・・?

https://social-innovation.hitachi/ja-jp/case_studies/happiness-planet/

 

 

悪意を持った表示、ヘイトスピーチの源水

 

「善悪」とは、善に生きようと努力思考する人々の概念だ

善を考える人によって悪の概念が生まれる

自分の行いを善と悪の秤に照らし合わせながら

慎重に言葉を選び、行いを選ぼうとする

だから善を行おうとする人々の心の中にはいつも善と悪が同居している

 

ヘイトスビーチ?

差別意識に基づく発言?

ハラスメント?

あおり運転?

自粛警察?

根拠のない言いがかりの書き込み

無責任なリツイート?

歴史の改ざん修正?

何と軽率な、愚かな言動が世の中に発せられている事か

 

こうした発言行動をする人々はどのような概念で生きているのだろう

 

誰にでも、善を行おうとする心と悪を造る気持ちが同居しているものだ

その同居の事を大人になれば誰しもが気付くものだ

大人になる前でも多感な時間を得ることが出来た者であれば

若いうちにその事を心の内で学んでいる

 

しかし驚いたことに自分には正義しかないと思っている者がいる

自分の内には正義だけがあり、悪は自分の外にあるものだと思い込んでいる

いつの間にか正義に基づいて悪をなしている

年を取るにしたがってそうなる人間さえいる

 

自分の行いには悪の概念が入り込む余地がない

だから自分の行いに忍び込んでいる悪に気付けない

自分の内側に同居している悪のうごめきに気付けない

偏狭の精神構造は幼稚そのものなのだ

 

次々と湧きあがってくる正義感

押し出される様に次々と噴出する悪意に満ちた言葉

それが正義という名の悪意である事に気付けないまま

憎悪に満ちた自分の言葉、行いに酔いしれている、

それこそが正義だと思い込んで

 

                                                                            

もう800年ほども前に、道元は言う


造悪(ぞうあく)(もの)()ち、修善(しゅぜん)(もの)(のぼ)

 

                                                                         

善を知り悪を知るという事は

人間として生きる上での慎重な概念

 

悪は自分のにあるものと信じて疑わない

稚拙なる我らが正義の、志士とは言い難き人々

その善と悪が同居する自らの心の荒野を見つけ出し

修善の者となって陞る日が来ることを願わずにはいられない

                                       


  あくつくりながらあくあらずとおも

(あく)(ほう)あるべからずと邪思惟(じゃしゆい)するに()りて

あくほう感得かんとくせざるにはあら(修証義第1章より)

 

 

2020年6月10日『新聞読んで語ろう会』例会の報告



 

4月1日に行った例会を最後に、2か月以上の休止に追い込まれておりました『新聞読んで語ろう会』の例会、6月10日に「やっとこさ」再開致しました。

 

6名参加という小ぢんまりとした再開でしたが、それなりに充実した語り合いだったような気がします。

 

例会の報告の前に、私し連絡係(Y)が今回の再開に至るまでにいろいろ思っていたことと言うか心理状況を先に書いておきます。

 

前回の4月1日の例会を行った時点で、すでに多くの集会講演シンポなどが中止されていた状況の中で、『新聞読んで語ろう会』は結構最後まで平然と例会をこなしていました。

いつも参加される方からも「今回は自粛します」という内容の連絡もかなり増えていた中、それでも10名前後の参加者が来られていました。

しかしそうやってねばって開いていた例会も、そうこうしているうちにエルプラザが全面閉館となり、以降開催することが出来なくなりました。

 

実はこの時点で、正直なところしばらくは「無理しなくてもいい」という気持ちで、何となく安堵したという部分が私(Yにはありました。

 

この「無理」というのは、勿論この感染症のさなかでの「例会開催の是非」という視点での無理というものも当然あったのですが、もう一つ連絡係としての責務という点での「無理」も多少ありました。

連絡係として参加している身としては、例会開催の時にはいろいろな資料を準備する事とか皆さんへの「開催ご案内メール」などを出すというような事、例会当日の『語りあいの進行役をこなす』などで何かと気を使っていたわけでしたが、そうした業務からちょっと解放されたような気分も味わったのです。

 

そうして2か月が経つと、正直な気持ち「ちょっと腰が重くなった」感じがし始めていました。

実際この自粛期間中とされた2か月余りも、私(Y)としては、それまでの数十年間やって来た通常の生業としての仕事を同じようにやり続けて来ていましたので、何だか「仕事で疲れているのにさらに市民の集会にまで参加するなんてちょっとやり過ぎの人生かもなあ」という怠け心が「出て来なかったとは言えない」そういう心理状態でした。

 

何となくくたびれた市民の心理とはこういうところがあるものなのです。

きっとただの市民ではない、いわゆる活動家的な人はこのような「面倒臭い」みたいな感覚など蹴散らかしてどんどんと前に進んでいくんだろうなーと思いましたが、一方「面倒臭い」とちらりとでも思う自分がなぜか自分で許せてしまうのです。

例会再開をお待ちいただいた皆様、たいへん申し訳ない怠け者なのであります。

 

さてこの2か月の間にあちこちでネット会議という方式での対話も行われるようになりました。

このまま「人と人とが顔を突き合わせて対話する」という事が出来ない時代が来てしまったのだろうかという不安が膨らんできて、ネット会議の試みは好む好まないにかかわらず必要性が増してきていると感じました。

 

連絡係(Y)もいくつかネット会議の実験などの試みもやってみました。

そういう過程の中で東京方面で行っている市民のネット会議「たむろする会」に参加するという事が出来ました。

テレビ会議で遠くに住んでいる人たちと居ながらに語りあいが出来るという事はやはり画期的なことだなあと実感しました。遠隔地の方々との意見交換という利点はネット会議ならではの事です。

しかし、会議の進行は時としての通信不良状態が発生して度々中断せざるを得なく、その事が若干のストレスになるという現実も垣間見ることとなりました。

 

こうしたネット会議への参加でつくづく感じたことは、「ああ、やはり皆話したがってる」「意思疎通、コミュニケーション取りたいんだよ」「気持ちの繋がりを持ちたいんだよ」という事です。

 

とても長い前段となりましたが、2か月の間にたどり着いた答えは、やはり「市民が集まって語り合える場は必要だ」という事です。

 

という事で、さあ『新聞読んで語ろう会』再開しましょう。


 

 

再開した今回の『語ろう会』は、ちょっとブランクがあったので記事を題材にする前に、皆さんのこの2か月間の生活はどんなだったのかという事をお話しいただきました。

 

やはり外出自粛によるいわば引き籠り生活の話が多かったのですが、中で印象的なお話がありました。

勤務が基本的にテレワークに変わり週に1度か2度しか出社しないという状態になった中で、テレワークでの仕事というのが朝から晩までやるような量の仕事がある訳でもなく、結局時間を持て余すような生活感で、人によっては時間感覚がずれてしまう者もいたりして、難しい部分があったという事。

テレワークで時間が余ってしまうような状態なのにそれでも何とか仕事になっているものだと感じた時に、コロナ前は毎日出社して会社であれだけ追われるように仕事していたのは、あれはいったい何だったのだろうと思い感じているという内容でした。

 

さていよいよ記事を題材に語り合いを始めました。

 

今回最初に取り上げた記事は、マガジン9に掲載された『中島岳志さんに聞いた:「救世主待望論」から抜け出して、ポスト・コロナに向けたパラダイム転換を

https://maga9.jp/200610-0/

 

また、同じく中島岳志さんが北海道新聞に出された「論壇 ポストコロナの世界観 環境破壊の営みに決別を」の2つの記事を題材にしての語り合いです。

 

中島岳志さんの主張には例えば野球選手の本当のファインプレーというのは難しい事をいとも簡単そうにやってしまう地味なプレーなのに対して、失敗た者や下手な者ほど派手なギリギリのプレーをして見せてファインプレーのようなふりをするものだが、それと同じようなことがコロナ危機での対応の仕方に出ていて、対応が早かった自治体の知事はさらりと難関をクリアしたのに対して初動を失敗した大阪の吉村知事や東京の小池知事はとても派手なパフォーマンスをしたり、攻撃対象を見つけてそこを叩くことでファインプレーに見せかけているのではないかというような部分があります。

 

参加者から、そういう派手な指導者を新たな救世主のように勘違いしてはいけないという意見が出ました。

 

そこで改めて一つの言葉がキーワードとして挙がりました。

それは「ポピュリズム」

ポピュリズムとはいったい何だろう?という事でそれぞれに思っていることを語り合いました。

究極のポピュリズムはヒットラーなんじゃないだろうかという意見もあり、いずれにしても「ポピュリズム」は良い意味で使われることはないですね、内容も考えずに他者を貶めるだけの目的で、誰それはポピュリズムだと言っている場合もあるかも知れないという意見もありました。

 

コロナウィルス関連では、なぜ新型と言うのだろう、どうして新型が出来るのだろうという疑問から始まり、中島氏の記事に出てくるパオロ・ジョルダーノ氏や斎藤幸平氏が、人間がウィルスの居場所を奪ったために行きどころを失ったウィルスが今度は人間を居場所にしようとしているというようなその理屈についての確認などで語り合いました。

 

その後コロナ政策の話に移り、給付金1人当たり10万円という決断が、最低生活保障という考えに基づくと考えればベーシックインカムのさきがけではないだろうかという意見と、生活最低保障という概念ではなくコロナによる生活困窮に対する緊急支援金という意味と捉えるべきで、それだからこそ給付が未だになされていないのは異常な怠慢だという意見。

さらに、緊急なのになかなか出ない給付金という事と、「もうこれ以上持たない」という訴えの言葉がよくテレビなどでかなり前から出ている割には、何とか踏みとどまりながら今ももう持たない」と訴えているそういう感じにも見えて、結構何とかなっているという事なのだろうか?という意見、


しかし、あまり派手にニュースでは取り上げられてはいないけれど、注意して見ていると、コロナ関連倒産の件数だとか、派遣社員・非正規雇用者の解雇がものすごく増えているとか、路上生活者が増え炊き出しに並ぶ人の行列が長くなって来ているというのが出ていて、そういう事がもっと報道で表に出て来ないと勘違いするのではないだろうかという意見。

 

解雇という話から、自分が以前倒産によって解雇された時の経験という事で、「倒産解雇の場合は独立行政法人の何とかというところから補助金のようなものがポンと振り込まれたよ」という話があり、それはいったい何なのだろうという事で後で調べようという事になりました。

 

翌日その事を調べてくださった参加者氏からの報告を以下に記載します。

 

*************
「賃金の支払の確保等に関する法律」に基づくもので、厚労省の独立行政法人労働者健康福祉機構が取扱っている制度です。

賃金については,従業員の生活を保護する観点から,法律の要件はありますが,未払い賃金については,未払い額(額面)の約8割が独立行政法人労働者健康福祉機構から立て替えて支払われる制度です。
ただし,支払までには多少の手続きが必要ですので,実際に従業員に立替金が支払われるまでには,3か月から半年程度かかることがあります。
ただし、この未払賃金の立替払制度は、倒産企業が清算手続きを行っていることが前提になります。
https://www.johas.go.jp/chinginengo/miharai/tabid/417/Default.aspx

*************

 

以上、今回の語り合いは終始「コロナ、コロナ」という事になりました。



2020年6月10日(水)例会を行います



ついにこの日がやってきたという感じです。

COVID-19によって休止していた例会の再開です。

この感染症があたかも収束に向かうかのような印象もないわけではないのですが、市民が行う集会をどういう裏付けのもとに始められるのか、それが未だによく分かりません。

分からないから怖いという心理に結びつきます。
そうやって、恐怖心でいつまで経っても実行できないという事が、本当に良い事なのかどうか?悩み続けています。

私たちが行う集まりというものは、おそらく現政権にとって良い内容の語り合いがなされる集いではないという事になると思います。

従来であれば首を突っ込んでなど来なかったような一般市民が集い、政治や社会の問題に対し批判的な内容の話などを語り合う事が多いからです。

太っ腹の政権であれば「いろいろな意見が市民の中から表に出てくる事は大いに結構な事」というスタンスになるのでしょうが、どうもそういう雰囲気はありません。

ある意味有るまじき集会を開いて、そこで感染者が出ようものなら何こそ言われるものやら分からない、そういう立場にあるという感じです。

結局私たちのような行為を、恐怖心のあまりにいつまでも停滞させるという事は本当に世の中にとって良い事なのかどうか、私たちの生き方として良い事なのかどうかというジレンマのようなものを感じています。

そういう中で、いよいよ再開します。


「無能」

                   (2020.05.17更新)


「無能」という言葉

 


どのような場合でもあまり褒められた表現ではないが、最近メディアで発言される事が急に多くなってきたように感じる『無能』という言葉。

この言葉は、あまり機械や道具や装置だとか動物だとかに向けて使う言葉ではない。

この言葉の対象は人間でありその人間の能力に対する評価であることがほとんどと言っていい。

 

では最近急にそのような評価を受け始めた人間がいるという事になるのだろうか。

 

私はこの言葉をもう半月も前にヨーロッパでも比較的COVID19感染者が少ない国に住む知人から聞いた。

 

彼女との会話の内容はCOVID19に対する各国の対応についてだった。

日本人である彼女はやはり日本がどうなっているか気がかりで、頻繁に日本からのニュース注目して見ているという。やはり最大のニュース元はNHKだが、それ以外にもネットのニュースサイトなども兼ね合わせて視ているというからおおよそ私が見ている内容とそれほど変わりはないのだろう。

 

せっかく海外に住んでいるのだから、外国のメディアやマスコミでは日本の事をどう報じているのか知りたくて、「日本のCOVID19対応はどう報じられているのか」という質問をした。

 

即答で帰ってきた言葉が「日本の無能なリーダー」という言葉を用いて、日本の対応を疑問視するニュースや解説ばかりが多くなってきているという事だった。

具体的には、PCR検査数の圧倒的な少なさと、その数を実質的に増やそうとしていない考え方に対してだという。

世界中の共通認識としての「徹底したPCR検査数の拡大」という目標に対し、徹底的に反対方向を向いている日本政府の考え方に大いに疑問を感じているのだろう。

こういう評価ばかりが飛び交う中で、日本人であることがとても恥ずかしいという思いも彼女は付け加えていた。

 

さて、今回のCOVID19感染症に対する内閣の対応について、日本の国民的な共通意識も確かに疑問を持つ方向に向かってきているように見える。

大金を使う「アベノマスク」や、「新型コロナウイルス感染症緊急経済対策」という一人当たり10万円の給付金についても「緊急の対策」とは名ばかりで1か月経とうというのに国民のほとんどは未だそれを手にしていないとか、まるで支援金救済金営業保証金を払いたくないかのように「自粛は要請するだけ」に留める手法など、そういう背景もあってか、またあるいは海外からの評価が次第に伝わって来ている所為なのか、メディアやマスコミも、更には国会の質疑の中でさえ「無能」という言葉が急に増え始めてきたようにも感じる。勿論それは政府に対しての評価の際の言葉だ。

 

そして相変わらずというのだろうか、こうした言わば政府の方針に対する否定的な意見が出ると、決まってその評価や評価をする人に対して断罪するような抗議の意見も出てくるものだ。

「このような国難に立ち向かっている時に、政府の足を引っ張るような事を言いふらす奴らは『国賊』だ『非国民』だ」というような意見だ。

こういう政権批判に対して今本気で『国賊』だ『非国民』だと思っているような日本人がいるとすると、それもまた本当に愚かしい事と感じてしまうのだけれど、実際こういう意見を流布しているのは実はその『無能』呼ばわりされた政府内部からなのではないか、またそれを真に受けた一部の市民が拡散しているのではないかという疑惑も感じる。

たとえば政府内において『市民意識工作班』のような広報係的役割というものを感じてしまうのだが、こういう事はいつの世にもあって不思議ではない事かとは思う。

市民はそういう工作活動(市民気分搖動作戦情報)で踊らされない能力を身に付けなければならないのだが、それがはっきり言ってとても難しい。

 

安倍晋三は「無能」なのか?成功するのか?

 

さて、その『無能』と海外から言われるに至っている我が安倍政権。

確かにCOVID19の対応にはあらん限りの無能さを発揮したように見えるけれど、彼の事をただの無能という事で済ませてしまってそれで本当に良いのかというとそうとも言えない。

 

行政権の長でありながら彼はしたたかにもこの機に及んで検察に対する人事権をも手中に収めようとしている。

 

内閣が検察に対して人事権を持つという事は、国のあり方として三権分立を放棄するという事に他ならない。

黒川検事長の定年を「特例」と称して定年直前にすでに半年間延長したが、それが当時の検察には違反していて黒川氏の定年延長は本来無効であることは歴然としているのではないかと一市民感覚では思うところだ

『世界人権宣言』には、行った行為についてその後から作った法律で罰することは出来ないというものがある。後付けの法律で罰することは出来ないというものだが、後付けの法律で法律違反をなかったことに出来るというのは、その法律がよほど悪い法である場合には、あってもいい事なのかもしれないが、今回の検察法後付け改正は絶対に許せるものではない。現行の法律がどうにもならない悪法とは思えないからだ。

しかし当初の現行法に違反していることを問われると「法解釈を変更した」と言い放つ。

 

安倍晋三氏はいろいろな場面で法解釈を何度も変更してきたし、すでに憲法の解釈さえも平気で変えて来ているが、その経緯を見れば今後も法改正など全く必要はないのではないかとさえ思う。

自分が思う都合に合わなければ現行法でも憲法でも「解釈変更」という手法を用いてどうとでも出来る為政者となっているのだ。

彼がやっている事はまさに法治国家の破壊としか言いようがない。

 

さてこのようなことが出来る人間とは、はたして「無能」と言えるのだろうか?

そんな言葉を使って彼をこけ落としてみたところで、彼は着々と変えていく。その実行力は無能な人間のなせる事ではないのではないか。

 

「いや、彼は無能だ。彼は操られているだけだ」という人もいる。

確かに彼が向かっている姿を拍手喝采している集団がいると聞く。

決して弱小団体ではない。「日本会議」という極右思想の国粋主義団体が彼を後押ししている。

 

小泉政権時代に田中真紀子氏がメディアのインタビューに答えて当時安倍晋三の事を「中身が何もない空っぽの人。ぺらぺらと口先ばっかりで中身は何もない、それが安倍晋三という人」と答えていたのを私は今でも覚えている。「だから、何も出来ない、そういう人ですよ」とも言っていたような気がする。

 

安倍晋三氏は結局そういう日本会議やもしかすると公明党からもただ操られているというだけなのか、いや自らのしっかりとした信念があっての事なのか、いずれにしても彼は戦後レジームからの脱却を見事に成し遂げて来ている。

勿論これは良くなっているというよりも最悪の方向に向かって変革していると思う。

まさに世の中をひっくり返す『最悪の革命』を彼はやっているのだ。

 

今から100年前に今のこの世の中の有り様や、安倍政権などのようなインチキ革命をやるような政治家の出没を想像していた人がいるだろうか?

 

私はふと将来の事を思い浮かべる。

例えば100年後の事を。

 

ちょっと難しい無理な想像で100年後を思ってみる。

はたして日本という国は残っているだろうか?

 

かつて「日本という国があったけれど今はその国もなく、日本人の末裔が世界のそこここで小さな集落を作って生き延びているらしい」などと云う事がどこかの国の歴史教科書に載っているなんて事になってはいないだろうか?

今となって私の記憶では、自分の祖父母の事さえよく分からないが、そのまた祖母や祖父ともなればどこでどういう事をしていたのか、何を思いながら何を生業にしていたのかもよく分かっていない。

(私の祖母たちは、二人ともそこそこの長寿で、私もよく覚えているが、祖父の事は二人とも全くと言っていいほど知らない)



100年後とは私たちの孫のまたその孫くらいの時代になるだろうか?

彼らにとっては知る由もない、先祖の時代にいったい何があったのかという事が、どのような話(ノンフィクション?ドキュメンタリー?想像の歴史小説?)として伝えられるだろうか?

 

100年後の安倍晋三とは?

 

安倍晋三は日本の誇るべき人物として伝えられているだろうか?

安倍晋三という名は、歴史に残る善良なる政治家と伝えられているのだろうか?

安倍晋三は、それとも日本という国家の歴史に残る最悪の政治家の一人として記憶されてはいないだろうか?

 

安倍晋三が治めていたという日本のその時代に、彼の政策思想に反対し抵抗した人々はどのような群像としてえがかれるのだろうか?

 

勿論100年後日本が、今では想像出来ないほど良い国になっているという事もあるだろう。

しかもそういう国に仕上げたのが安倍晋三だったということだってないとは言い切れない。

 

現代、彼の政治手法に対しことごとくと言っていいほど否定している私の考えの方が間違っていたという事も有り得るのかも知れない。

 

しかし今この瞬間に一市民として想う私信念は、

「安倍晋三は間違っている!」

「安倍晋三は日本を駄目にしている!」という事

 

2020年4月15日の『新聞読んで語ろう会』例会、休止についての報告

 

 

会が始まって以来、隔週水曜日5年間ほど、私の記憶ではほとんど一度も休まず行って来た例会を、この度ついに休止しました。

 

もちろんその理由は「COVID-19」によるもの。

この3か月ほど会場確保が不安定でしたが、何とか代表氏の尽力で予約確保して来たエルプラザの部屋も、例会の前々日にエルプラザの全面的な閉館によってとうとう会場確保が出来なくなってしまったのでした。

 

こうして(外的要因により)休止せざるを得ない状況になったため、言い訳はしやすいのですが、実際、では場所が確保出来ていたら例会を行ったのか?という事も(今だから言えるお話ですが)自問自答しておりました。

 

例会日15日の1週間ほど前から、札幌圏でのCOVID19判明される感染者数がジワリと増えつつあったことで、市民目線では間違いなく(第2波への)恐怖心が増大してきていると感じていました。

この状況で例会を開いてもそれほど参加者は多くならないだろうという予測を持てば、会を開いても密集にもならず大丈夫ではないだろうかとも考えられました。

 

しかしそう思う一方、軒並みあちこちの集会中止という事態の中で、『決行する会』があれば何とか参加したいと思う積極派の方々も相応の人数いるのではないか、その方々が来られると、そこそこの人数になるかも知れないという予測も考えられました。

実際にその前2回の例会でも、めったに来られない方の参加もありました。

 

まずこの二つの考えのどちらを予測し、会を開くかどうかを決めなければならないと思っていました。

 

もう一つ、別な角度での見方もよぎります。

「果たして、危険を冒してまで行う意義がある会なのかどうか?」という、どちらかと言うとかなり自信喪失的な発想です。


一方では、ちゃんとした理由を持ち、出来る限りの対策の中で行う事は、今後のこうした感染症の蔓延するような事態の中での市民の生き方という事を考える上では、大事な意義もあるのではないかという事も考えられました。

 

今回のCOVID19の世界的な感染状況について、(他者との接触を普段より80%以上減らせば1か月で終息するなど)楽観的な見通しでの公的な情報が出る一方、地球規模での終息には少なくとも年を越すだろうし、おそらく数年はかかるのではないかという専門家のお話も出ています。

 

前者の条件(80%減の)方法での成功率について、私はかなり悲観的に見ております。

何故なら、そのような(1か月で終息という)楽観的数値がどういう調査の集積による結果から出て来ているのかもはっきりしていないし、80%以下の接触という目標値自体が完全な外出禁止や都市封鎖(いわゆるロックダウン)でもしない限りほとんど不可能なものだと予測すると、本当は楽観的どころか逆にとても達成不可能である悲観的な目標であることを明示しているとも見えるです。

 

他の国が早期に検査数を増やして感染者を特定し隔離することで感染拡大の抑止を行ったのに対して、日本は独自の方式(発症者を基に濃厚接触者を特定して検査をし感染経路を確定する方法の、いわゆるクラスター潰し)に固持し、全体的な感染状況を見ることが出来ないまま市中の感染を広げてしまっていて、今はもう手のつけようがない状況にまでなってしまっているのではないか?

こういう懸念を否定できる具体的な統計資料がなく、また死因がコロナウィルかどうかも分からぬまま埋葬された人々が大勢いるのではないか?

そういう人の数がどのくらいになっているのか?

 

このような疑問に答えられる資料も全くないような状況になっている(状況にしている)

市民感覚でそういう疑念が起きるようなネガティブな思いを払拭できる確固たるものが全くと言っていいほど何もない、日本の状況はそういう事になっているような気がしています。

 

私たちは、なぜ自粛しなければならないと考えるのでしょうか?

 

政府がいろいろ検査をしたり調査をしたり世界中から報告されているはずのデーターを分析したりして、それを私たちに分かりやすい資料として明示し、私たちはその説明を受けて納得した上で自粛しているでしょうか?

 

それとも,私たち一般人にはどれほど説明したところで理解できない事が多いのだから、したがって政府が無知蒙昧の私たちの命を救うためには私たちには有無も言わさず命令するという形を取らざるを得ず、その結果私たちは否応なしに自粛させられているという事なのでしょうか?

 

私は今の日本では、この二つのどちらでもない理由で自粛という形態が進み始めていると感じています。

 

単に私たちには能力がないという事ではなく、情報があまりにも少ないために、納得して自粛するという段階が取れていないというのが現状でしょう。

 

では強力な命令を受けているかと言えば全くそんな事も無い。

 

私たちの多くは、恐怖に慄いていて、足がすくんで動けなくなって、それが自粛という形に見える『行動をしない行動』になっているというのが本当のところではないかと思います。

 

そういう訳の分からない圧迫感の中で、ただ「医療現場がもうどうにもならない状況になりつつある」「いやもうすでに医療崩壊は始まっている」という現実のみが私たちに襲いかかり、この状況を脱するには私たちの行動(自粛)にかかっている、上手く行かなかったらそれは国民の行動に問題があったからだという手順が着々と進んで来ているように感じ、国民はその圧力と情報不足の中での恐怖心から動けなくなってしまっている、そういう気がしてなりません。

 

こうした気持ちの中で、次回の例会は日本の国状がどういう段階になった時点で行うべきなのか、いわば出口をどこに見つけるのか、これからまた考えて行かなければならないと思っています。


コロナで疲弊している皆さま。

音楽で心を癒してください

https://katarou123.blog.fc2.com/blog-entry-37.html




音楽で心を癒してください

 

このような動画を見つけました。

https://www.youtube.com/watch?v=YOy_JkmGX6s


これは、グスタフ・マーラーが作曲した交響曲第3番の最終楽章のフィナーレの部分です。

演奏しているのはBSOのメンバー。

BSOとは、私はボストン交響楽団の事かと思ったのですが、違いました。

ボルティモア交響楽団でした。

動画の冒頭で解説(1分20秒ほど)しているのは、音楽監督のマリン・オールソップさん。

札幌縁の音楽家レナード・バーンスタインの愛弟子の一人です。

 

個人的な好みの話ですが、私もまだ若かりしころにマーラーの第3番、特に最終楽章を聴いて思ったことは、「自分が死んだ時にはこういう曲を聴かせてほしい」と切に思ったものでした。

(その思いは今も多少はあるのですが、最近は、また別の曲が希望のリストに入って来ています)

 

マーラーの3番はそういう死者を送るような曲では実はなくて、どちらかと言うと「復活を願うような」力が湧き上がってくるフィナーレだと思っています。

(若いころ私は死んでもまた復活したいと思っていたのだと思います)

 

BSOのメンバーがあまり上手ではない音声ミキシングの悪条件の中で、それぞれの家から精いっぱい音楽を届けてくれたと思います。

 

世界中で、オーケストラとか、芸術とか、生産性という点では後回しにされそうな分野の方々が、今回のCOVID-19ですさんできた世の中に何とか光を差し込もうと頑張ってくれているなあと思いました。

 

(この最終楽章をフルで聞きたい方は、

https://www.youtube.com/watch?v=sJw0slhUWek 

(第3番全曲を聞きたい方は、

https://www.youtube.com/watch?v=1AwFutIcnrU&t=308s )

 

ただし、このマーラー第3交響曲は、最長の交響曲というギネス記録があったほど長い曲です。

全曲だと1時間40分以上、最終の第6楽章だけでも25分以上かかります。

私は飽きませんが・・・。

 

 

もう一つ楽しい動画

皆さんよくご存じの曲

 

https://www.youtube.com/watch?v=nt8FhIVmR8M

120秒のところ、皆さんを笑顔にしてくれるでしょう

 

以下、色々ありましたので心を癒してください。

 

https://www.youtube.com/watch?v=o6N3SzbVbHQ&t=8s

 

https://www.youtube.com/watch?v=wq-YwxRBIQ8

 

https://www.youtube.com/watch?v=kayw0iXoK7g

 

https://www.youtube.com/watch?v=E8T7Y-E6E_w

 

https://www.youtube.com/watch?v=p09hpKAv9Jc&t=32s

 

https://www.youtube.com/watch?v=fvuy2MqHo-0

 

Appendix

プロフィール

連絡係  

Author:連絡係  
『新聞読んで語ろう会』は新聞、雑誌、ネット記事、書籍など、気になるものを持ち寄り、市民目線で語り合う会です。

普通の市民が、生活のこと、政治のこと、社会のことを、あまり生真面目になり過ぎずに楽しく語り合いながら勉強?しています。

このブログを通して、会で見たこと聞いたこと感じたことなどを、連絡係の視点で皆さんにお伝えしようと思います。

連絡先: kataroukai123@yahoo.co.jp

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