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「無能」

                   (2020.05.17更新)


「無能」という言葉

 


どのような場合でもあまり褒められた表現ではないが、最近メディアで発言される事が急に多くなってきたように感じる『無能』という言葉。

この言葉は、あまり機械や道具や装置だとか動物だとかに向けて使う言葉ではない。

この言葉の対象は人間でありその人間の能力に対する評価であることがほとんどと言っていい。

 

では最近急にそのような評価を受け始めた人間がいるという事になるのだろうか。

 

私はこの言葉をもう半月も前にヨーロッパでも比較的COVID19感染者が少ない国に住む知人から聞いた。

 

彼女との会話の内容はCOVID19に対する各国の対応についてだった。

日本人である彼女はやはり日本がどうなっているか気がかりで、頻繁に日本からのニュース注目して見ているという。やはり最大のニュース元はNHKだが、それ以外にもネットのニュースサイトなども兼ね合わせて視ているというからおおよそ私が見ている内容とそれほど変わりはないのだろう。

 

せっかく海外に住んでいるのだから、外国のメディアやマスコミでは日本の事をどう報じているのか知りたくて、「日本のCOVID19対応はどう報じられているのか」という質問をした。

 

即答で帰ってきた言葉が「日本の無能なリーダー」という言葉を用いて、日本の対応を疑問視するニュースや解説ばかりが多くなってきているという事だった。

具体的には、PCR検査数の圧倒的な少なさと、その数を実質的に増やそうとしていない考え方に対してだという。

世界中の共通認識としての「徹底したPCR検査数の拡大」という目標に対し、徹底的に反対方向を向いている日本政府の考え方に大いに疑問を感じているのだろう。

こういう評価ばかりが飛び交う中で、日本人であることがとても恥ずかしいという思いも彼女は付け加えていた。

 

さて、今回のCOVID19感染症に対する内閣の対応について、日本の国民的な共通意識も確かに疑問を持つ方向に向かってきているように見える。

大金を使う「アベノマスク」や、「新型コロナウイルス感染症緊急経済対策」という一人当たり10万円の給付金についても「緊急の対策」とは名ばかりで1か月経とうというのに国民のほとんどは未だそれを手にしていないとか、まるで支援金救済金営業保証金を払いたくないかのように「自粛は要請するだけ」に留める手法など、そういう背景もあってか、またあるいは海外からの評価が次第に伝わって来ている所為なのか、メディアやマスコミも、更には国会の質疑の中でさえ「無能」という言葉が急に増え始めてきたようにも感じる。勿論それは政府に対しての評価の際の言葉だ。

 

そして相変わらずというのだろうか、こうした言わば政府の方針に対する否定的な意見が出ると、決まってその評価や評価をする人に対して断罪するような抗議の意見も出てくるものだ。

「このような国難に立ち向かっている時に、政府の足を引っ張るような事を言いふらす奴らは『国賊』だ」というような意見だ。

こういう政権批判に対して今本気で『国賊』だと思っているような日本人がいるとすると、それもまた本当に愚かしい事と感じてしまうのだけれど、実際こういう意見を流布しているのは実はその『無能』呼ばわりされた政府内部からなのではないか、またそれを真に受けた一部の市民が拡散しているのではないかという疑惑も感じる。

たとえば政府内において『市民意識工作班』のような広報係的役割というものを感じてしまうのだが、こういう事はいつの世にもあって不思議ではない事かとは思う。

市民はそういう工作活動(市民気分搖動作戦情報)で踊らされない能力を身に付けなければならないのだが、それがはっきり言ってとても難しい。

 

安倍晋三は「無能」なのか?成功するのか?

 

さて、その『無能』と海外から言われるに至っている我が安倍政権。

確かにCOVID19の対応にはあらん限りの無能さを発揮したように見えるけれど、彼の事をただの無能という事で済ませてしまってそれで本当に良いのかというとそうとも言えない。

 

行政権の長でありながら彼はしたたかにもこの機に及んで検察に対する人事権をも手中に収めようとしている。

 

内閣が検察に対して人事権を持つという事は、国のあり方として三権分立を放棄するという事に他ならない。

黒川検事長の定年を「特例」と称して定年直前にすでに半年間延長したが、それが当時の検察には違反していて黒川氏の定年延長は本来無効であることは歴然としているのではないかと一市民感覚では思うところだ

『世界人権宣言』には、行った行為についてその後から作った法律で罰することは出来ないというものがある。後付けの法律で罰することは出来ないというものだが、後付けの法律で法律違反をなかったことに出来るというのは、その法律がよほど悪い法である場合には、あってもいい事なのかもしれないが、今回の検察法後付け改正は絶対に許せるものではない。現行の法律がどうにもならない悪法とは思えないからだ。

しかし当初の現行法に違反していることを問われると「法解釈を変更した」と言い放つ。

 

安倍晋三氏はいろいろな場面で法解釈を何度も変更してきたし、すでに憲法の解釈さえも平気で変えて来ているが、その経緯を見れば今後も法改正など全く必要はないのではないかとさえ思う。

自分が思う都合に合わなければ現行法でも憲法でも「解釈変更」という手法を用いてどうとでも出来る為政者となっているのだ。

彼がやっている事はまさに法治国家の破壊としか言いようがない。

 

さてこのようなことが出来る人間とは、はたして「無能」と言えるのだろうか?

そんな言葉を使って彼をこけ落としてみたところで、彼は着々と変えていく。その実行力は無能な人間のなせる事ではないのではないか。

 

「いや、彼は無能だ。彼は操られているだけだ」という人もいる。

確かに彼が向かっている姿を拍手喝采している集団がいると聞く。

決して弱小団体ではない。「日本会議」という極右思想の国粋主義団体が彼を後押ししている。

 

小泉政権時代に田中真紀子氏がメディアのインタビューに答えて当時安倍晋三の事を「中身が何もない空っぽの人。ぺらぺらと口先ばっかりで中身は何もない、それが安倍晋三という人」と答えていたのを私は今でも覚えている。「だから、何も出来ない、そういう人ですよ」とも言っていたような気がする。

 

安倍晋三氏は結局そういう日本会議やもしかすると公明党からもただ操られているというだけなのか、いや自らのしっかりとした信念があっての事なのか、いずれにしても彼は戦後レジームからの脱却を見事に成し遂げて来ている。

勿論これは良くなっているというよりも最悪の方向に向かって変革していると思う。

まさに世の中をひっくり返す『最悪の革命』を彼はやっているのだ。

 

今から100年前に今のこの世の中の有り様や、安倍政権などのようなインチキ革命をやるような政治家の出没を想像していた人がいるだろうか?

 

私はふと将来の事を思い浮かべる。

例えば100年後の事を。

 

ちょっと難しい無理な想像で100年後を思ってみる。

はたして日本という国は残っているだろうか?

 

かつて「日本という国があったけれど今はその国もなく、日本人の末裔が世界のそこここで小さな集落を作って生き延びているらしい」などと云う事がどこかの国の歴史教科書に載っているなんて事になってはいないだろうか?

今となって私の記憶では、自分の祖父母の事さえよく分からないが、そのまた祖母や祖父ともなればどこでどういう事をしていたのか、何を思いながら何を生業にしていたのかもよく分かっていない。

(私の祖母たちは、二人ともそこそこの長寿で、私もよく覚えているが、祖父の事は日たりとも全くと言っていいほど知らない)



100年後とは私たちの孫のまたその孫くらいの時代になるだろうか?

彼らにとっては知る由もない、先祖の時代にいったい何があったのかという事が、どのような話(ノンフィクション?ドキュメンタリー?想像の歴史小説?)として伝えられるだろうか?

 

100年後の安倍晋三とは?

 

安倍晋三は日本の誇るべき人物として伝えられているだろうか?

安倍晋三という名は、歴史に残る善良なる政治家と伝えられているのだろうか?

安倍晋三は、それとも日本という国家の歴史に残る最悪の政治家の一人として記憶されてはいないだろうか?

 

安倍晋三が治めていたという日本のその時代に、彼の政策思想に反対し抵抗した人々はどのような群像としてえがかれるのだろうか?

 

勿論100年後日本が、今では想像出来ないほど良い国になっているという事もあるだろう。

しかもそういう国に仕上げたのが安倍晋三だったということだってないとは言い切れない。

 

現代、彼の政治手法に対しことごとくと言っていいほど否定している私の考えの方が間違っていたという事も有り得るのかも知れない。

 

しかし今この瞬間に一市民として想う私信念は、

「安倍晋三は間違っている!」

「安倍晋三は日本を駄目にしている!」という事

 

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2020年4月15日の『新聞読んで語ろう会』例会、休止についての報告

 

 

会が始まって以来、隔週水曜日5年間ほど、私の記憶ではほとんど一度も休まず行って来た例会を、この度ついに休止しました。

 

もちろんその理由は「COVID-19」によるもの。

この3か月ほど会場確保が不安定でしたが、何とか代表氏の尽力で予約確保して来たエルプラザの部屋も、例会の前々日にエルプラザの全面的な閉館によってとうとう会場確保が出来なくなってしまったのでした。

 

こうして(外的要因により)休止せざるを得ない状況になったため、言い訳はしやすいのですが、実際、では場所が確保出来ていたら例会を行ったのか?という事も(今だから言えるお話ですが)自問自答しておりました。

 

例会日15日の1週間ほど前から、札幌圏でのCOVID19判明される感染者数がジワリと増えつつあったことで、市民目線では間違いなく(第2波への)恐怖心が増大してきていると感じていました。

この状況で例会を開いてもそれほど参加者は多くならないだろうという予測を持てば、会を開いても密集にもならず大丈夫ではないだろうかとも考えられました。

 

しかしそう思う一方、軒並みあちこちの集会中止という事態の中で、『決行する会』があれば何とか参加したいと思う積極派の方々も相応の人数いるのではないか、その方々が来られると、そこそこの人数になるかも知れないという予測も考えられました。

実際にその前2回の例会でも、めったに来られない方の参加もありました。

 

まずこの二つの考えのどちらを予測し、会を開くかどうかを決めなければならないと思っていました。

 

もう一つ、別な角度での見方もよぎります。

「果たして、危険を冒してまで行う意義がある会なのかどうか?」という、どちらかと言うとかなり自信喪失的な発想です。


一方では、ちゃんとした理由を持ち、出来る限りの対策の中で行う事は、今後のこうした感染症の蔓延するような事態の中での市民の生き方という事を考える上では、大事な意義もあるのではないかという事も考えられました。

 

今回のCOVID19の世界的な感染状況について、(他者との接触を普段より80%以上減らせば1か月で終息するなど)楽観的な見通しでの公的な情報が出る一方、地球規模での終息には少なくとも年を越すだろうし、おそらく数年はかかるのではないかという専門家のお話も出ています。

 

前者の条件(80%減の)方法での成功率について、私はかなり悲観的に見ております。

何故なら、そのような(1か月で終息という)楽観的数値がどういう調査の集積による結果から出て来ているのかもはっきりしていないし、80%以下の接触という目標値自体が完全な外出禁止や都市封鎖(いわゆるロックダウン)でもしない限りほとんど不可能なものだと予測すると、本当は楽観的どころか逆にとても達成不可能である悲観的な目標であることを明示しているとも見えるです。

 

他の国が早期に検査数を増やして感染者を特定し隔離することで感染拡大の抑止を行ったのに対して、日本は独自の方式(発症者を基に濃厚接触者を特定して検査をし感染経路を確定する方法の、いわゆるクラスター潰し)に固持し、全体的な感染状況を見ることが出来ないまま市中の感染を広げてしまっていて、今はもう手のつけようがない状況にまでなってしまっているのではないか?

こういう懸念を否定できる具体的な統計資料がなく、また死因がコロナウィルかどうかも分からぬまま埋葬された人々が大勢いるのではないか?

そういう人の数がどのくらいになっているのか?

 

このような疑問に答えられる資料も全くないような状況になっている(状況にしている)

市民感覚でそういう疑念が起きるようなネガティブな思いを払拭できる確固たるものが全くと言っていいほど何もない、日本の状況はそういう事になっているような気がしています。

 

私たちは、なぜ自粛しなければならないと考えるのでしょうか?

 

政府がいろいろ検査をしたり調査をしたり世界中から報告されているはずのデーターを分析したりして、それを私たちに分かりやすい資料として明示し、私たちはその説明を受けて納得した上で自粛しているでしょうか?

 

それとも,私たち一般人にはどれほど説明したところで理解できない事が多いのだから、したがって政府が無知蒙昧の私たちの命を救うためには私たちには有無も言わさず命令するという形を取らざるを得ず、その結果私たちは否応なしに自粛させられているという事なのでしょうか?

 

私は今の日本では、この二つのどちらでもない理由で自粛という形態が進み始めていると感じています。

 

単に私たちには能力がないという事ではなく、情報があまりにも少ないために、納得して自粛するという段階が取れていないというのが現状でしょう。

 

では強力な命令を受けているかと言えば全くそんな事も無い。

 

私たちの多くは、恐怖に慄いていて、足がすくんで動けなくなって、それが自粛という形に見える『行動をしない行動』になっているというのが本当のところではないかと思います。

 

そういう訳の分からない圧迫感の中で、ただ「医療現場がもうどうにもならない状況になりつつある」「いやもうすでに医療崩壊は始まっている」という現実のみが私たちに襲いかかり、この状況を脱するには私たちの行動(自粛)にかかっている、上手く行かなかったらそれは国民の行動に問題があったからだという手順が着々と進んで来ているように感じ、国民はその圧力と情報不足の中での恐怖心から動けなくなってしまっている、そういう気がしてなりません。

 

こうした気持ちの中で、次回の例会は日本の国状がどういう段階になった時点で行うべきなのか、いわば出口をどこに見つけるのか、これからまた考えて行かなければならないと思っています。


コロナで疲弊している皆さま。

音楽で心を癒してください

https://katarou123.blog.fc2.com/blog-entry-37.html




音楽で心を癒してください

 

このような動画を見つけました。

https://www.youtube.com/watch?v=YOy_JkmGX6s


これは、グスタフ・マーラーが作曲した交響曲第3番の最終楽章のフィナーレの部分です。

演奏しているのはBSOのメンバー。

BSOとは、私はボストン交響楽団の事かと思ったのですが、違いました。

ボルティモア交響楽団でした。

動画の冒頭で解説(1分20秒ほど)しているのは、音楽監督のマリン・オールソップさん。

札幌縁の音楽家レナード・バーンスタインの愛弟子の一人です。

 

個人的な好みの話ですが、私もまだ若かりしころにマーラーの第3番、特に最終楽章を聴いて思ったことは、「自分が死んだ時にはこういう曲を聴かせてほしい」と切に思ったものでした。

(その思いは今も多少はあるのですが、最近は、また別の曲が希望のリストに入って来ています)

 

マーラーの3番はそういう死者を送るような曲では実はなくて、どちらかと言うと「復活を願うような」力が湧き上がってくるフィナーレだと思っています。

(若いころ私は死んでもまた復活したいと思っていたのだと思います)

 

BSOのメンバーがあまり上手ではない音声ミキシングの悪条件の中で、それぞれの家から精いっぱい音楽を届けてくれたと思います。

 

世界中で、オーケストラとか、芸術とか、生産性という点では後回しにされそうな分野の方々が、今回のCOVID-19ですさんできた世の中に何とか光を差し込もうと頑張ってくれているなあと思いました。

 

(この最終楽章をフルで聞きたい方は、

https://www.youtube.com/watch?v=sJw0slhUWek 

(第3番全曲を聞きたい方は、

https://www.youtube.com/watch?v=1AwFutIcnrU&t=308s )

 

ただし、このマーラー第3交響曲は、最長の交響曲というギネス記録があったほど長い曲です。

全曲だと1時間40分以上、最終の第6楽章だけでも25分以上かかります。

私は飽きませんが・・・。

 

 

もう一つ楽しい動画

皆さんよくご存じの曲

 

https://www.youtube.com/watch?v=nt8FhIVmR8M

120秒のところ、皆さんを笑顔にしてくれるでしょう

 

以下、色々ありましたので心を癒してください。

 

https://www.youtube.com/watch?v=o6N3SzbVbHQ&t=8s

 

https://www.youtube.com/watch?v=wq-YwxRBIQ8

 

https://www.youtube.com/watch?v=kayw0iXoK7g

 

https://www.youtube.com/watch?v=E8T7Y-E6E_w

 

https://www.youtube.com/watch?v=p09hpKAv9Jc&t=32s

 

https://www.youtube.com/watch?v=fvuy2MqHo-0

 

COVID‐19、新型コロナウィルスをどう考えればいいものやら・・・その2

 

私はCOVID‐19、新型コロナウィルスについて、今回の政府の対応には懐疑的な思いが強いです。

 

おそらく多くの国民が感じているでしょうWHOを筆頭として世界中が「検査検査検査」と言っている中で、日本では検査を抑制する方向を変えようとしていないように見えます

 

圧倒的に多くの人々に対してPCR検査を行い、市中感染状況を把握しながら感染者に対しての早期の対応を行った結果、感染の広がりの抑制にそれなりの成果を上げていると見られるドイツと比較して、なぜ日本ではそういうやり方をしてこなかったのか?という疑問は多くの人々が持ってきていると思います。

 

先日のテレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」にコメンテーターとして出演された順天堂大学大学院の堀賢教授(感染制御科学)他の出演者からこうした日本のやり方についての質問が出されました。

堀氏はきっぱりと言って、今の日本の政府のやり方を肯定的に説明されました。

その発言は「日本はドイツとは違う!違うやり方を、日本はポリシーをもってやっている」というものでした。

ふざけた言い方をするつもりではありませんが、私は本当に「のけぞりました」。

 

彼の言い分というのは、こういう事です。

https://medical.jiji.com/topics/1581?page=1

 うまく進んできた(日本の)コロナウイルス対策 (抜粋)

 

新型コロナウイルスで日本政府の対応に批判もありますが、国内の医療体制はどうだったのでしょうか。  


 今回の日本でのコロナウイルス対策は2009年の新型インフルエンザ対策の反省から10年に作り直し、13年に改訂(新型インフルエンザ等対策特別措置法が13年に施行)したものにのっとって行われていて、非常にうまく進んでいると思っています。日本では死者が少ないのは、まさにその努力が実ったといえます。  

 イタリアや韓国に比べて患者が少ないのはPCR検査の数が少ないからだとも言われていますが、軽症者でも重症者でもすべて検査して陽性患者を全員指定病院に収容させたら、本当に重症者を入れるスペースがなくなり、医療が崩壊して、亡くなってしまう人が増えます。中国・武漢では、医療のキャパシティーを超えて患者が殺到したことで、重症患者がいわゆる「超過死亡」でたくさん亡くなりました。それが今起きているのがイタリアの状況です。  

 日本の対策では、まず肺炎がある重症患者以上を優先的に収容しました。もともとは風邪なので、8割は自然によくなる。であれば、限られた医療資源を2割の人に対して使うことにして、その線引きを最初の水際対策をしながら探っていたのです。

 

ダイヤモンドプリンセスについては、あれだけの大型客船の検疫は、世界で初めて経験することなので、最初からベストの方法を取れたかというと難しかったと思います。  

 今回は現場にいろんな分野の人が入って合議しながら、その時にできる最善ではなかったかもしれませんが、最良の策を取ったのではないかと思います。いろいろな批判はありますが、のちに専門家による総括を行うことで、今回の教訓を必ず将来に生かせると思います。

 

堀氏の言われている事には一理あるのかも知れません。

それは、全員検査ではなく発症者を見つけてその関連の感染者を見つけ出して感染の広がりを抑制するという(いわゆるクラスター潰し)方法がかつてからあって、この手法での成功例があったという話もあるようで、その成功例が今回も使えると判断したのかも知れません。

しかしその手法では、今回はどうもうまくいかないと早くに判断できた多くの国では「出来るだけ多くの検査をする」という手法に転換した、その切り替えが日本では行われなかったと見れば、堀氏が言った「日本はポリシーをもってやっている」という言葉も納得は出来ます。

しかしポリシーをもってやっているという点はともかく、過去の成功例に固執して彼は判断ミスをしている可能性が高いのではないかと、素人目ですが私は思っています。

 

それからもう一つ、別の日に同じくテレビ朝日 の「羽鳥慎一モーニングショー」にコメンテーターとして出演された、政治ジャーナリスト・田崎史郎は、新型コロナの検査をしないまま肺炎で亡くなった方でも全員に胸部CT検査をしているので、その時点でCOVID-19の感染者であったかどうかは把握しているから、日本で新型コロナウィルスで死亡した人数は政府や自治体の発表数より多いという事はないと断言しましたが、どうも意図的な嘘なのか勘違いされたのか、とっさに出た政策擁護をするでたらめな発言だったように見えました。(個人の感想です)

あたかも、政府要人の一角をなしているかのような発言ばかりの田崎氏をコメンテーターとして出演させなければならないTV局が、今どのようなジャーナリズムを形作っているのかという疑問も募ります。

https://biz-journal.jp/2020/04/post_150410.html

 

 

国が困窮者になった人に現金給付をするという、その「30万円を」という時の安倍首相の「どや顔」「どや口調」が、何とも胡散臭く感じてしまいます(個人の感想です)

 

「機動的に必要かつ十分な」

「間、髪を入れずに」

「一気呵成に」

「これまでにない発想で」

「思い切った措置を講じ」

「総力を挙げて」

「かつてない規模の」

こういう言葉が鼻を衝いて矢継ぎ早に彼の口からは飛び出してきます。イメージ戦略としてやっているように見えます。

 

私には、何だか「どや顔」や「どや口調」をひけらかすために「感染症恐怖」を利用しているようにしか見えません。

本気で国民の命を守ろうとしている切実な願望を、彼の態度から見て取ることは残念ながら出来ないのです。(個人の感想です)

 

困窮している証拠を持って「自己申告しろ」という政府の態度もおかしいし、世帯主を基準にするというのもおかしいし、今この時点で収入が1割減っただけでも生きて行けなくなるような人だっているというのに5割以下になるまではダメとかもおかしいし、一人世帯も5人家族世帯も10人家族世帯も、一律30万円はとてもおかしい計算だし、今回の現金給付にはおかしなことがいっぱいあるように感じます。


ある知り合いが言いました「今回の給付金て、一回だけなの?」

そうですよね。この先どれだけ困窮が続くのかはっきりしない中で、一度きりしかもらえないという事であれば、たとえ貰えたとしてもとてもどんどん使う気持ちにはなれない、麻生氏が失敗談として言っていたように今度もまずは貯金して様子を見るという事になるかも知れません。

第二弾、第三弾も考えているという表明はあったのでしょうか?

 

個人々々、一人ひとり、国民全員に一定額を現金給付するという事を原則にして(ドイツのように手早く給付して)、「私は困っていないから辞退するという人の方が自己申告するという事にすれば、国民目線ではそういう辞退するようなお金持ちが格好よく見えるのではないかとも思います。

お金持ちにしてみれば、そのような小口の現金など「はした金」にしか感じないだろうし、はした金を辞退して社会に貢献した振りが出来て、さらにみんなに褒められたりすれば気分もいいのではないかと思います。

https://www.moneypost.jp/649814

 


もう一つ不可解なのが次NHK NEWS WEBのこの記事

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200403/k10012365521000.html

 

新型コロナウイルスの感染拡大で企業の経営環境が急速に悪化していることから政府は、大企業や中堅企業の財務基盤を支えるため日本政策投資銀行を通じて1000億円規模の出資枠を設ける方針を固めました。」とあります。

 

一方で次の北海道新聞の記事(2019年12月のもの)

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/374240

 

これによると、大企業の内部留保は膨らむ一方だと言います。

アベノミクスが始まった2012年度を境に内部留保の増勢が強まっているという分析もあります。

もちろんその額のすべてが現金ではないという事だとは言え、膨大に膨らんだ500兆円規模の内部留保を持つ大企業に、急いで1000億円規模の出資枠が必要なのだろうかと疑問に思います。

 

そのお金は、緊急に生活が逼迫している個人にすぐ給付する方が良いのではないかと思います。

 

いま、現在の政府や都の困惑した発言を代弁するマスメディアの報道では、「いくら外出を控えるように要請しても、言う事を聞いてくれない若者」という括りと、「夜の外出やライブハウスなど人と人との接触も相変わらずなくならない」というものがあって、外出していたりイベントに参加している人々や若者たちにインタビューなどをした番組を報じています

彼らが行政の言う事を無視しているようなイメージも出されますが、そうした国民の動きの最大の原因は、基本的に納得できる情報が国民に届かない状態、それどころか国自体が検査も増やさずデーターが正確ではない中で、イメージ的に発言を続けている事で、『政府を信用していない』人々がそう簡単に言う事を聞く気持ちになれないのではないだろうかとも感じます


信頼すべき人の言う事は強制しなくても従いますが、信頼していない人の話は聞きません。

 

 

以上いろいろと政府のやり方やそれに迎合するような報道に疑問を感じる者として、今回のコロナ対策に懐疑的にならざるを得ないという庶民感情を書いてみました

2020年4月1日、『新聞読んで語ろう会』例会の報告

 

 

4月1日、『新聞読んで語ろう会』の例会を行いました。

8名参加でした。

エイプリルフールでもなんでもはなく、本当にやりました。

エルプラザ4階「男女参画研究室 1 」は、外向きに窓がある部屋ですので、入り口のドア全開とその窓を少し開け、通気を良くして行っています。

 

政府、厚労省などが『3つの密が同時に発生しないように』という提言をもとに、一応(相当気を使い)対策しての開催でした。


私としては、今回のコロナ騒動における日本の政府の対応についてはほとんど懐疑的にしか見ていないわけですが、その政府が言う『3密原則』についてだけは何故か信用している(3つの密が同時に起きないようにしていれば大丈夫だろう)という、なんとも都合の良い解釈をしている自分に、自虐的な反省の気持ちが沸き起こる事を禁じ得ないところではあります。

(当初は、「3つの密が同時に重ならないように気を付けて」と言っていたと記憶していますが、最近は「同時に重ならないように」という言葉をあまり使わなくなっていて、それは当初言っていたのと内容が変わったのか?ただ端折っているのかがよく分かりません。もし変わったという事であればその事をはっきりと言ってほしいと思うのですが、今の言い方だと「3密」のどれ一つにも該当しないようにという意味にも取れます????)


 

今回最初に取り上げた記事は、最近北海道新聞で連載していた「ネットと政治」というシリーズの第1回目を題材にしました。

コロナウィルスの関連から始まる記事ですが、世界中で感染症現場を数多く経験し対応してきた専門家医師がクルーズ船に入った時、その現場の対処の仕方のあまりのいい加減さに恐怖を覚えた事をネット配信したところ、自民党のネット対策班がそれを打ち消す投稿をし組織的ともいえる大量拡散などをしていた事など、自民党がネットを利用して情報発信する事に力を注いでいるという内容。

 

語り合いでは、「そうした自民党のネット対策の影響が実際に大きいと感じている」という意見と、「若い人たちを見ているとネットの情報との付き合い方を心得ていて意外と影響はなく記事は誇張しすぎていると思う」という意見が出ました。


話は、ネットによる政治活動や選挙運動などの話を経て、さらにネットという括りを離れ選挙時の活動の制限が厳しすぎて、事実上選挙期間にはほとんど何もできないのはおかしいという意見が出ました。

選挙期間中にもっといろいろなことが出来たらいいという意見。

極論として、「買収のようなお金のばらまきだっていい。金を貰ったからといってその人に入れなくたっていいのだから、くれるモノはもらって選挙は自分の入れたい人にいれる。そのくらいの気持ちでいれば良い事なのだから」という意見まで出ました。

 

いずれにしても、インターネット上を飛び交う情報によって、私たちの考え方は影響を受けるという環境になって来ているのは間違いなく、その影響の大きさというものをどのくらい自覚できるのかどうかによっては、自分は上手に使いこなしているつもりでいても知らぬ間に洗脳されているという事にもなりかねない、そういう危機感・恐怖感を持つ必要があるのではないかと感じました。

 

2番目に取り上げたのは、雨宮処凛さんが『津久井やまゆり園』事件について数名の方と対談した本、『この国の不寛容の果てに』の中から、森川すいめい氏との対談で《 「耐え忍ぶ」日本と「工夫する」北欧 》という部分を取り上げて語り合いました。

 

この題材の部分では、雨宮さんの「日本では人に迷惑をかけないという事が美徳なのだという考え方があって、人の手を借りなければ大変な立場にあるというような(いわゆる弱者に当たる)人が、この美徳に反する(人に迷惑をかけている)のではないかというような社会風潮の中で、困っていてもじっと耐え続けるようなところがあるのではないだろうか?」という問いかけに対し、森川氏が北欧で見た徹底した話し合いを例に挙げて、困っている事を解決するためにそこに関わる周りの多くの人々が時間をかけて話し合って皆が問題点を理解し皆が納得できる解決方法を見出して行くというやり方の素晴らしさを紹介しています。

 

ここではやはり日本人の「対話べた」を指摘する意見が多く出ましたが、私たち『語ろう会』の参加者は何とかその日本的な負の部分を解消するための『自分の意見を言う事』『人の意見を聞く事』が出来るようになる練習の場になって来ているような気もしています。

 

ただし、そういう意味では今回のCOVID19は(唾を飛ばしての)対面での話し合い、語り合いなどするわけにはいかない、水をさされたような、とんでもない事態となってしまっているという危機感はぬぐえません。

 

今回は、前段に出て来た「対話のようでいて対話ではない」みたいな、「対話ではないつもりでいた中での意思疎通」のような、SNSなどのネットを使った情報流通やコミュニケーションと、後半のテーマとなった生身の人間が顔を突き合わせてのリアルタイムの対話による問題解決方法というものが、対比的に出て来た『語り合い』となりました。

 

次回に持ち越した『リスクコミュニケーションとクライシスコミュニケーション』についても、今起きているCOVID19のような問題にどのように向き合うべきなのかを考える上での、コミュニケーション(意思疎通)のあり方を考える機会になるのではないかと思っています。



2020年3月18日例会の報告

 

昨年12月11日の例会の報告以来、しばらくぶりの報告。

報告の再開と言ってもいいほどしばらくぶりです。

 

昨年の12月25日も、ちゃんと例会は行っていました。

更に年が明けた1月8日にも。(この日は半分例会、その後、皮肉を込めて『雪を見る会』と名打った新年会を行いました)

 

勿論1月22日、2月5日、2月19日、3月4日と着実に隔週の例会を行っております。

 

その内容については、「今さら報告するのもどうかな?」と言い切る訳にはいかない中身のあるものでしたが、いくつかの(連絡係Yの個人的自己納得の)理由を言い訳にしてここまで行って来ませんでした。

(1月23日に私の(個人的なことですが)業務上の資格延長の必須試験を受けなければならず、その受験用の詰め込み学習で脳内活性部分がオーバーフロー寸前、なかなかじっくりした文章を書き上げる作業が出来なかったのです)

 

にもかかわらず、12月11日と25日の例会は『新聞読んで語ろう会』で初めてとなる北海道新聞の取材を受けるという出来事もありました。

北海道新聞の記者が取材を兼ねて2度も参加をして下さり、自らも『語ろう会』を体験して行かれました。

 

その取材後の記事が、年が明けた1月9日(今年最初の例会を行った次の日)に道新の朝刊に掲載されました。

 

その後、記事を読んで興味を持たれた市民の方々から問い合わせが来まして、次回参加すると明言された方も何名かいて、ちょっと多人数の例会になる事が予想されました。

 

それが1月22日の例会です。

(翌23日に試験という事で私としては(参加はしても少し引っ込んで)『語り合い』は皆さんにお任せしようかと思ってもいましたが、そんなことも言ってられない例会になっていました)

 

22日当日は参加者が21名という、いつもの倍にもなる人数での例会となりました。

急遽椅子を借りて来て、ギュウギュウ詰め状態での、(初めての参加者が多い)緊張感あふれる語り合いとなりました。

 

その勢いの中、2月に行った2回の例会も、15名近い参加者で行いました。

 

個人的な資格試験と、新聞に掲載された後の急な参加者増という経緯から、その後若干疲労感脱力感が発生してしまい、報告文を書くモチベーションが低下してしまったというのが、ここまで報告をサボっていた正直な理由だと理解してください。

 

その後、この間で特筆すべきなのは、3月の4日と今回の18日の例会です。


新型コロナウィルス(COVIT19)の流行が拡大する様相の中で、北海道では知事による『緊急事態宣言』が発表され、その中での開催となりました。

 

COVIT19についての連絡係Yの私見は、下記別記事に掲載します。

https://katarou123.blog.fc2.com/blog-entry-31.html

 

この自粛ムードの中、4日は8名、今回18日には12名の参加となりました。

(正直なところ、こんなに参加されるとは思っていませんでした)

 

さて、という事で、やっとここから今回の語り合いの中身の報告という事になりますが、その前にもう一言。

 

この数回の例会報告をサボっていた間にいろいろと考えてはいたのですが、今後の報告は少し(若しくは大幅に)簡素化した報告にしようかなと、すなわち、例会内で語られた多くの発言を出来るだけ忠実に再現しようという今までの報告のやり方はやめてみようかと考えております。

 

実際、中身を詳しく知りたい方は是非例会に『生身で』参加して頂き、自分の目で耳で確認して頂くのが一番いいのではないかという事です。

それと、一度挫折しかけた私自身の(このブログの)サスティナビリテーという意味でも・・・

 

さて今回の題材記事は、紋別のアイヌ畠山さんという方が「秋に初めて遡上する鮭に祈りを捧げる儀式(札幌では「アシチェノミ」と言っている)」の祭壇にお迎えする鮭を河川から無断で捕獲した罪で送検されたという記事で(お迎えするのだけれど、捕獲という扱いになる)、世界中で先住民族に対する先住権が議論され実現されて来ている中で、日本においてはその先住権が未だに認められないまま今日に至っている事から、今回の畠山氏の行った行為を問題提起ととらえ、皆でちゃんと考えなければならない時期が来ているという内容です。

 

和人(アイヌ民族に対比した言い方)ばかりが集まってアイヌ民族の事を語ろうとした時、アイヌ民族について、又はアイヌ民族の歴史的な事象について、よく分かっている人、多少なりとも理解出来ている人が若干名いて、その人がその他のほとんど分かっていない人々に対して自説を論ずるような場面になるというのが通例となっていますが、今回もそのような語り合いとなりました。


アイヌ民族とはどういう人々なのか?先住権とは何なのか?先住権がなぜ必要だという話になるのか?そういう疑問に対しての、この参加者の中では識者のほうに該当する人が自説を語るという事が繰り返されました。


こうした語り合いの中で、アイヌ民族とか先住民族とか在日の外国人の事について取り上げられることが繰り返されれば、少しは理解が進むのではないかと思う内容でした。

 

アイヌの現状についての、連絡係Yが思っている事などを下記別記事にて、掲載します。

https://katarou123.blog.fc2.com/blog-entry-32.html

 

次の記事

 

今回の例会の日、3月18日の二日前、16日に、いわゆる『相模原事件』(施設に侵入し重度の知的障がい者を多数死傷させた事件)の判決が行われ、被告に死刑判決が言い渡されました。

 

その判決理由や判決を受けての遺族や被害者の家族、そのほか多方面の方々の意見がいくつかの記事となりましたが、こうしたものを題材に語り合いました。

 

死刑制度そのものに対する意見が出る一方、この事件の現場であるような知的障がい者施設の事や、老人介護施設の現状を語る人もいました。

 

記事の中で多く語られている「わからない事(例えば被告が差別主義に至った本当の理由)がまだまだ残っている」という中での死刑判決と、被告がいかなる判決でも上告はしないと明言している事からこのまま死刑が確定しまう可能性か高い事についてどう考えたらいいのかも語り合いました。

 

記事の引用ですが、甲南大法科大学院の園田教授の「結論が変わらなくても上級審で議論を深めるべきだ」という意見を強く支持したいと思います。

 

連絡係Yの、この件についての私見を別記事で掲載します。

https://katarou123.blog.fc2.com/blog-entry-33.html





相模原殺傷事件の一審判決で何が分かったのか

 

2016年、相模原市の「津久井やまゆり園」で重度の知的障がい者(被告が対話不能とか意思疎通が出来ないと判断した障害者)が多数殺傷された事件があり、その被告である植松聖に対して一審を行っていた横浜地方裁判所が「死刑」を言い渡しましたが、この事件、この判決をどう考えたらいいのでしょうか。

 

まず、今回の裁判の焦点は被告が犯行当時に罪の責任を負える状態であったかどうか、すなわち「責任能力の有無」という事に関しての争いとなる事が明白だったという事です。

 

植松被告が事件当時に何らかの心神耗弱や心神喪失状態にあったのかどうか、その一点が争われ、責任能力が問えない状態であったと判断されれば無罪か無罪に近い大幅な減刑、責任能力があると判断されれば有罪となり、この場合は間違いなく死刑判決が下されるであろうという、いわば両極端の判決しかありえない裁判だったと言って良いのだろうと思います。

 

そして、「責任能力アリ」であれば、今度は「犯行の動機の解明」が明確になされる必要があるという事になるでしょう。

 

それはこの事件について多くの人々が注目をして見つめている部分というのはいろいろあるとは思いますが、この裁判で重視されたのはあくまでも責任能力の一点であり、責任が問えるのであれば犯行動機の明確化をするという事で、判決の妥当性を明らかにするという、この一本道での審議(あるいは審理と言うべきなのか?違いがよく分からないのでここでは審議としました)だったのだろうという事です。

 

判決を出す側の心理としては、この死刑判決がいかに妥当なものであるかという説得力ある理由を示されなければならないという事なのだろうと思います。

 

裁判官にとっても裁判員にとっても、中間的なあいまいな「落としどころ」という場所を早々と取り除かれた中での審議になった事は容易に想像されます。

 

判決文では弁護側が主張した植松被告の大麻の常用による中毒から来る精神的な異常(動因逸脱症候群を伴う大麻精神病)を重視する医師の鑑定を手掛かりに無罪を主張したのに対して、判決では被告人がパーソナリティ障害及び大麻使用障害・大麻中毒であることは認めながらも、弁護側の医師による鑑定結果をひとつひとつ否定する事で一点の曇りもない『犯行時の被告入が完全責任能力を有していた』との判断を導き、予想通りの死刑判決を正当化しました。

 

 

私、連絡係Yの私見ですが、こうした判決理由の構築の中ではかなり無理をした部分もあったように感じます。

 

特にその判決文の中で度々出てくるのですが、それがどうしても胸の中でモヤモヤとしてくる、チクリチクリと痛む感じがする、そういう部分があるのです。

 

それは「到底是認できない内容とはいえ・・・、発想として了解可能・・・」という部分です。

 

すなわち、動機の解明の部分での判決文を要約すると

・植松被告が重度障がい者施設が劣悪な環境で人権をないがしろにするような介護状態である事を体験をした

・「障がい者もその家族も不幸」という考えが構築された

過激な言動で注目を集める海外の政治家のニュースを見て、人が口にしないことでも勇気持って真実を言ってよいと感じた

国際的なテロに関するニュースを見て、金が不足しているから紛争が起きると考えた

・障害者支援のための予算で世界中で国家財政が圧迫されているのが現実だと思った

・「障がい者を安楽死させる」ことが本人にとっても世界にとっても良い事だと思うに至るが、「日本では安楽死制度がないため、自分が殺害する事で日本のためになる」と判断した

・「自分が障がい者を多数死なせる事によって、それを契機に世界で重度障がい者の安楽死への道が開ける」と判断し実行した。

 

判決では、こうした一連の動機解明によって、この犯行に至る考え方や犯行そのものは「到底是認できないが、そういう考えに至ったのは了解できる」と言い、了解できる(意味不明ではない)ような理論を積み重ねられる人間だから、精神的に異常がある状態の人間ではない。だから十分に責任能力のある人間だという積み重ねをしたのだなと感じます。


(判決文には、他にも植松被告がいかに冷静な判断ができていたかなどの部分も詳細に述べられてはいます)

 

こうして、「正常な判断ができる=責任能力アリ=有罪・死刑」がすっきりと並べられた、一点の曇りもない判決が構築されたかに見えます。

 

しかしここのところにモヤモヤとしたもの、チクリチクリと痛むものを感じてしまうのです。

 

判決で言いたい事は『責任能力アリ』というのは分かるけれど、その為に植松被告の殺害動機・殺害理由それ自体は了解できるという形を取らざるを得ないという事が、何故か虚しく感じるのです。

 

植松被告と同じように正常な判断ができる人間が、彼が見たような劣悪な介護現場のようなたてまえとはかけ離れたような現場を目にし、合わせて世界のリーダーたちの過激な言葉に刺激を受け、さらに社会の経済状況に不安を感じるようになった、そういう者の中から彼と同じような理論で犯行を正当化する人間が再びも三度も出て来るのではないかという事を予感させるような判決ではないかと感じたような気がして、それがモヤモヤ感となりチクリチクリと刺さって来たのかなと思います。

 

判決では「到底是認できない」と言っています。植松被告の犯行の動機の事でしょう。

しかし本当に是認できない事は別にあるのではないか?それが明らかにされることによって、二度とこのような犯罪が起きないための指針になるような、そういう別の「到底是認できない」ものを明らかにしなければ、どうもモヤモヤ感は晴れそうもありません。

 

 

例えばそれは、犯行動機を構築するきっかけとなった「介護の現場の事」がひとつあげられるのではないかと思います。


判決文でも紹介されている植松被告の証言「職員が利用者に暴力を振るい、食事を与えるというよりも流し込むような感じで利用者を人として扱っていないように感じたという(他にもいくつかあげられているますが)、この現場で勤務し続ける中で、被告は考え方を変えていったという事も明記されていますが、介護現場がこうした状況のもとに成り立っているという事にこそ「到底是認できない」部分があり、それを改善させて行く社会的な合意がなかなかこの国ではなされていないという事が「到底是認できない」ことなのではないのかとも思います。

(判決の趣旨はそこにはないので仕方がないと言えば仕方がないのすが、そういう事が感じられるような判決文とは私には読めなかった、そこに何がしか残るものが有るのだと思います)

 

皮肉な事に、植松被告は障がい者に国の金を使う事は無駄な事だというように考えるに至るわけですが、実際には逆にもっと予算を振り向ける事で、すべての施設が環境の良い安定した介護施設という現場になり、植松被告がそういうたてまえ通りの職場に勤務していたならば、こんな事件を起こすような人格変貌は起きなかったのではないかとも思います。

 

(勿論すべての介護現場が劣悪だという意味ではありません。少ない予算の中でも、ある意味思想的にもしっかりとした基盤を持ち徹底して良い介護現場を作っている施設もたくさんあると思います)

 

判決文の詳細は下記NHK NEWS WEB で確認出来ます。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200316/amp/k10012334321000.html

 

COVID‐19、新型コロナウィルスをどう考えればいいものやら・・・

 

どこの誰かは知らないけれど

誰もがみんな知っている

 

そんな歌がありましたが、今や誰もが知っているという新型コロナウィルス。

世界各国で感染が拡大してそれにともなって死亡された方の報告が次々に上がり、特にヨーロッパでの数値が高く出ているようです。

 

確かWHOからパンデミックという表現がなされる状況になって、それぞれの国ではどのようにその危機が報じられそれを市民がどのように受け止め対応しているのかという事も、ここ日本にいて全然伝わってこないとは言わないけれど、どうも日本国内の報道では政府の発表に沿って「外国はひどい事になっている」けれども「日本は何とか持ちこたえている」という印象を出すために都合のいい報道だけをしているようにも見えて来て、もろ手を挙げて信頼する事ができないとも感じます。

 

最近の日本のメディアは、真相に切り込む鋭さや迫力に陰りがあり、それどころか政府広報係のように感じることさえ多々ある事から、今一つ信頼感が置けないというのが正直な気持ちです。

 

日本ではちゃんとした調査もせず(基礎的なデーターがない中では、発表される数値が根拠に乏しいのにもかかわらず)、「何とか持ちこたえている」と言い、しかし「ここから国民一人ひとりの対応が重要だ」などと言い、けれど具体的にどうするかと言えば個人個人で察してくださいと言われているようで、一方では経済的な影響は出来るだけ少なくしたいから、「そこそこに出歩いて、そこそこにお金は使った方がいい」ような雰囲気もあるようで、日本の国民は実は相も変わらず自己責任でどうするか、自分で決めろと言われているような気がします。

 

曖昧模糊とした情報で不安が募り、不安だから出歩かないのが一番だという機運を作る。そういう感じがするのです。

 

このような状況の中、ほとんど「不要不急ではないか?」と言われかねない例会を開くのは『いかがなものか?』という気持ちと、出来るだけの対策の中で行えば問題ないだろうという確信とも言えない確信(祈り?)の気持ちと、恣意的ではないかと思われる行政やその意向に従うような報道からの情報で、国民全体にモヤモヤとした不安が蔓延するという状況の中で、市民がある意味冷静な自主的判断で集い「生身の語り合いを行なう」という経緯は、実は今後の緊急事態等における市民の行動にも何がしかの役に立つ指針となるのではないだろうかというちょっと大げさな気持ちとが交錯した中、3月に入ってからの例会も行う事と決断しました。

 

https://www.japan-who.or.jp/event/2020/PDF/WPRO_COVID19JapaneseTranslation.pdf

アイヌの事を考える義務

今「アイヌがアイヌとして生きる」には?

(ひたすら存在感のあるアイヌ、「アイヌとしての存在感があるアイヌ」でなければならない。)

 

どんなに存在感がなくても和人は和人として生きている。和人として生きるのに何も特別なことが出来る必要などない。和人であるということさえ意識する必要もない。それが当たり前のことだと思っているだろう。

『和人』という人は、言うまでもなくそうやって(多分ほんの小さな個性を大事にしながら)生きている人の方が圧倒的に多いのだ。それは普通の人間が普通に生きているということなのだから。

 

アイヌはどうだろう?普通に生きながら、アイヌと認めてもらえるのだろうか?

アイヌらしい何かの芸(アイヌ語、アイヌ文様の刺繍、木彫り、アイヌ料理、ウポポやリセ、ムックやトンコリの演奏、伝統舞踊、カムイユカ、イソイタ、カムイノミ・・・)がひとつでも出来れば、この国でもアイヌとして生きてゆく事が許されていそうではないか?(勿論、これは芸ではない。文化なのだけれど)


しかし、そんなアイヌらしいことが何もできないアイヌはどうやってアイヌとして生きる?


こっそりと・・・ひっそりと、そうだ、ひっそりと(普通の和人の中に紛れるように)生きるしかない

(お前はすでに同化された)、そう言われているようではいないか?

 

和人の目は、アイヌらしい事が出来るアイヌ、そういうアイヌだけをアイヌとして認めようとしているのではないか。(それがアイヌの伝統文化を大切にするという大義のもとに)

そうすること、そう出来ることがアイヌらしい姿だと和人たちが求めてはいないか?

そしてもっと驚くべき事に、近頃ではアイヌ語も刺繍も料理も踊りや歌も、伝統文化のほとんどが一部の和人の「おしゃれな特技」となりつつある。この段階で文化はアイヌ以上にアイヌらしい芸となっているのだ。

今やアイヌの伝統文化も、和人のモノになりつつあるのではないか?

「伝統文化を尊重し保護し伝承をする」という名目で。いやそんな大仰な言い方をしなくともいいのだろう。

「なんと素晴らしい文化だ」と誉め讃えさえすれば、アイヌを理解しているつもりにもなれる。

そんな軽い同胞意識を持てば、アイヌの伝統を搾取しているという後ろめたさなどみじんも感じずにいられるのだ。

 

アイヌの文化とは何か?いや、そもそも文化とは何なのだ?

アイヌの伝統文化は大切だ。みんなで守ろう、伝えよう。その通りなのだ・・・・・が。

しかし文化というものは、いま「生身でそこに生きている人間の生きざま」にこそ「今の生身の文化」が宿っているという事ではないのか?今生きている、そこに「誇れる今の文化」があるのかどうかではないのか?

では今現在のアイヌの(伝統文化だけではない)「今の文化」とは何だ?

 

アイヌとして生き生きと生きている人々も確かにいるけれど、それはごくごく少数でしかない。

相変わらず和人の都合に合わせるように人前に立ってアイヌの伝統文化を勇ましくも披露する人々、あるいは和人政策にひっしで異議を唱える人々、伝統文化を土台に模索する若者たち、伝統文化をことさらに変化させようとする人々、そして和人の中に紛れ込んで静かに生きている人々、皆が生き延びるのに必死でいる。

生き延びる方法はいろいろあるのだ。地位を築いたアイヌさえも、それが生き延びる手立てなのだ。

 

和人に追いやられ「必死で生き延びようといている」、これこそが「今のアイヌ」の「苦渋の文化」の姿。

 

アイヌ新法(アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現させるための施策の推進に関する法律)は、搾取され同化されて行く近現代アイヌの苦渋の文化を覆い隠すベールでしかない。

権利回復を封印し、「先住民族」という衣だけで上部を着飾る法律ではないか。

和人の立法府よ!法学者たちよ!こんな法律が世界中に向け何を発信していると思っているのか?

 

『ウポポイ』はアイヌに対する民族同化政策の総仕上げ、明治以降の「強行的な同化政策を象徴する城」だ。

『城』は権力を象徴する箱モノ。和人の力(同化政策の執拗な強行)を象徴しているのが『ウポポイ』なのだ。

アイヌから搾取したあらゆるものをここに押し込み、それを観光資源に世界中に披露しようとしている。

アイヌはこの『城』を逆手に取って自分たちのものに出来るのだろうか?それが淡い夢と化してしまわないか?

 

私たちは、人間としての「今この瞬間の存在」を、今この瞬間にどれだけ自覚しているのだろうか?

そして、圧倒的に多いはずの普通のアイヌは、今この瞬間にどこにどうしているのだろう?


      ******************


こうした文章を書くに至る経緯(これはある意味では過酷な文章なのだ)

 

和人の政策によって人権を著しく侵害されたアイヌの現代の在りようについて、この文章では、「アイヌの中にはいろいろな人々がいて、中には余儀なく同化を受け入れた人々がいる」ということを示唆している。

 

そうした人々にとって決して嬉しい事ではないが、今さら否定する余力などありようのない現実であるのにもかかわらず、そうした「同化された民族」という歴史の再確認をする事は、それを受け入れて穏やかに生きて来た人々としては、さらには和人だと思いこんで育ってきたその子供たちにとっては、「負の意識の残酷な再構築」ではないのだろうか?

そういう人々を責めるつもりなど毛頭ないはずなのに、結果としてその生き方を完全には肯定出来ていないものではないのか?

 

同化されたのは過去の話で今さら蒸し返すことは残忍とも言える掘り起こしという事になる。

 

その事を慮って、「アイヌの人権問題を今さら掘り起こすべきではない。そっとしてあげる方が余程いい。問題だと言って掘り起こす善意ぶった行為こそ、残酷な人権問題を再現し引き起こしているではないか?」

大真面目にそう言った和人さえいる。まるで、自分こそが善人であるかの如くにそう言っている。

 

この文章は、ある意味で過激なものかも知れない。

これはアイヌという出自の人々が、和人という集団(政府)によって明らかに差別的強要を受けた事実、その歴史の中で侵された人権が未だに回復していない事を表わそうとした文章だ。

そういう意味で、日本国民の中で大半を占めると思われる和人すべてを断罪する文章なのだ。

 

その歴史を見るにあたって、現代の和人自らが(事さら明治以降の和人社会においての)その過ちを認めようとしない傾向が強い。

過去に犯罪があったとしても、自分にはどうする事も出来ない過ぎた事だという考え方の人々も大勢いる。

その意味で、アイヌ人権侵害の歴史と現行は、明らかに現代和人の意識に根付いている問題なのだ。

しかし現代和人の意識の根源にある問題なのにもかかわらず、当の和人にはその事を知ろうとする意欲も、理解し解明しようとする意欲もなく、ずる賢くも意図的にすり替えた方向からこの問題にアプローチする事で対処しようとしている。

 

「自分は差別意識を持っていないのだからこの問題(差別によるアイヌ人権侵害)は私にはほとんど関係ない事だと思う」というやり方。こういう意識で自分の思い方を正当化する人々が何と多い事か。

 

「この問題はすでに解決に向かっている話なのだから、それを大げさに取り上げること自体の方が差別を呼び戻すのではないか」という、屁理屈派もいる。この中には例の『寝た子を起こすのはかわいそうだ』という発想もあるだろう。

 

更に一歩前進して、アイヌの伝統的なものに興味を示しそれを褒めたり、「アイヌは格好いい」などということを表明すれば、自分は差別主義者ではないと思いこめる人々もいる。

 

どんな思い方をしてでも、自分は差別主義者ではないと言いたがり、その上でこの問題から一歩離れた位置に立つか、あるいはそっとその場から離れて行く、和人の大衆にはこういう人々が大勢いる。

 

このように和人の多くを占めている考え方、思い方で、アイヌの人権問題を解決して行ける筈もないのにだ。

 

先にも述べた「寝た子を起こすべきではない」というような考え方について一こと言えば、同化されてしまった人々を『寝た子のよう』な例え方をしてはいけない。彼らはやむ負えず同化を受け入れた被害者だ。彼らの負った心の傷を(確かに彼ら自身がその傷の事を忘れているとしても)どうやって回復するのかを(被害者共々に)真剣に考えなければならない、それしかこの国が野蛮国家から抜け出す道はないのだという自覚が必要ではないか?

 

ただし、ここまで対象にしてきた(断罪されるべき)和人とは、実は善良な人々なのだ。和人の多くは善良でありながらも不寛容で自己中心的で不勉強で非社会的なのだ。その結果(「いじめ」が一向に減らないように)身の回りの問題を解決する方法さえ思いつかずにいる。「そういう普通」を、普通の事なのだとして自分を許して来た和人たちは、やはり断罪されなければならないだろう。ここに書いたその意味とは、善良なる愚かな和人に向けた断罪の文なのだ。

 

(「アイヌはもういない」などと発言する)悪意に染まった差別主義者たちは、明らかに善良なる和人とは別モノ、この断罪にも値しない。彼ら『論外の人々』に語りかける言葉などないと断言しておきたい。


           **************


学ぶことはたくさんある

 

上記『今「アイヌがアイヌとして生きる」には?』こうした文章を書くに至る経緯』をアイヌ出自の方に読んでもらった。

 

内容に異議を感じないだろうか?私が現代のアイヌ民族について思っている事に、大きな間違いがあるのではないだろうか?そういう事を確認しておきたかった。

『新聞読んで語ろう会』でこれを参加者に読んでもらってもいいのだろうか?

そういう事をを訊きたかったのだ。

 

 

私が、『新聞読んで語ろう会』についての説明をし、この会が「市民が思い思いに語り合う場である事」を話している時

「だから、チャランケって大事な事なんだよ」と力を込めて言われた。

こういう事を、皆で語り合ってほしいという事を言って頂けた。

 

ここまで書いて、そう言えばと思う事がありもう少し話を続けたいと思う。

 

今出て来たこの「チャランケ」という言葉は、アイヌ語で「話し合う」というような意味だ。

チャッランケはアイヌの文化の特徴の一つだと思っている。

 

 

アイヌ語という事で思うのだが、私たちの『新聞読んで語ろう会』をアイヌ語で表すとしたら

 

asiroruspekampi  an=nukar wa  ukoitak=an ro

アシオルペカンピ アンヌカ   ウコイタアンロー

      新聞       読んで     語り合おう

 

とでもなるのだろうか?

(現代ではアイヌ語をローマ字表記する事が一般的になっている。これが正しいアイヌ語かどうか?ご指摘を頂ければ有り難いところだ。とりあえず注釈として付け加えると、カタカナで小さく表示した音は、日本語の発音にはないのだけれど、母音を伴わない子音のみの発音と思えば分かりやすい。ローマ字表記すると都合がいいという所以もここにあるのだろう)

                 

 

アイヌ語は、小さな単語を組み合わせていろいろな単語を作りあげる。

asirは「新しい」、 oruspeは「~に関する事柄、話」、 kampiは「紙」。

この組み合わせで新聞のことを言い当てている。

 

(アイヌの言語は、もともとは口承による伝達で文字は使わなかったので、新聞という概念はほとんどなかったと思うが、もしかすると交易先である和国にあった瓦版のようなものを知っていたという事は考えられそうだ)

ほかにも新聞のことをasirsonkokampi とも言うようだ。(sonkoとは「伝言」という意味)

 

nukarは「見る」(前につくanは「私たち」という人称を示すための接辞と言われる語)、waは「~して」、

ukoは「お互いに」、itak=anは「話す」、roは「~しましょう」という事になるだろう。

                     



ここで、このukoitak(話し合う)という言葉を念頭に置きながら考えてみようと思う。

 

実は最近では、先ほど出て来た「チャランケ」というアイヌ語が知られて来ている。これはかなり刺激的な言葉なのだ。

「チャランケcaranke」とはca言葉ranke(~を下ろす)を合わせて出来た単語。

いわば「言葉を叩きつける」という意味合なのだろうか、同じ「話す」でも「穏やかに話す」という意味合いが強いitakとは違って、「談判する」「抗議する」など相手に対して批判的な内容を訴えるという時の「話す」なのだ。

 

先の『新聞読んで語ろう会』をアイヌ語に訳す試みでは、語り合う事をukoitak(話し合う)という言葉で表現したが、互にチャランケをするukocarannke(ウコチャランケ)という言葉もある。

 

ウコチャランケというのは互いに言葉を叩きつけ合うのだから喧嘩のような対話、論争の様相となると思っていい。

 

ウコチャランケとは、主張が違う意見、違う見解などが生じ、どちらが正しいのかを決めなければならなくなったような時に始まると言われている。

今時の、裁判にも似たようなことをしていたとも言えるようだ。

 

違う主張をする者が二手に分かれ、双方が口の達者な弁士を立てて徹底的に言論で主張を戦わせ、決着がつくまで論争が続いたという事だ。時には数日も続く事があったという。

 

この様相を思い浮かべた時に一つ想像出来る事がある。

それは、チャランケを挑む双方が、互いに相手を同等の人間だと認め合っているという事が前提になっているのだろうという事だ。

どちらかが相手を見下すような立ち位置にいては、そこまで徹底した討論、論争が続けられるものではないだろう。

一方が優位な立場にいれば、ウコチャランケにはなりようがない。

 

そういう観点で見ると、ウコチャランケは一見激しい喧嘩のような論争の様ではあっても、互いに相手を同等の人間であると認め合っているという前提を持っている、ここは大事な部分でそれこそがアイヌの大事な伝統的な社会形成方法の一つの特徴ではないかと思う。

 

 

最近、「ヘイトスピーチ」が社会問題となって来ている。

断じて許されるべきものではないはずだが、日本ではこれを厳罰化するような法律を作るということに躊躇している。

その理由は憲法に定められた「表現の自由の保障」を何よりも優先するという事なのだ。

 

日本は特に戦前戦中から敗戦まで、自由な言論が封じられていたというトラウマのようなものを持っている。自由な言論が出来ず情報が制限されたため、敗戦に至るまで真実を知ることもできず、国民が主権者となることは出来なかったという、その恐怖のトラウマだ。

 

「ヘイトスピーチに対しては罰則で(国家権力で)封じ込めるのではなく、あくまでも言論で戦うべきである」そうする事で「表現の自由」が維持できるのだという趣旨の発言をする法学者が多いのだ。

 

国連の人種差別撤廃を推進する委員会から日本は幾度となく審査を受け、こうした日本の態度が再三指摘され、勧告を受け続けているというのが現状でもある。

 

憲法が保障する表現の自由にヘイトスピーチが該当するのかどうかはさて置いて、ヘイトスピーチがほぼ野放し状態の状況下で、ヘイトスピーチを何とか止めさせたいと思っている人々の中に「カウンター」と称するグループが現れ、ヘイトスピーチをする現場に押しかけてはそれを邪魔する言論をぶつけるという運動が起きている。今の状況下では、ある意味法学者の意にかなった現象とも言えるのかも知れない。

 

一見すると、これはまるで路上で繰り広げられる「ウコチャランケ」のようにも見える。

 

しかしここではっきり言えることは、ヘイトスピーチとそれに対抗するカウンターの論争の風景は決して「ウコチャランケ」ではないという事だ。

 

ヘイトスピーチとは、差別(特に相手を見下すような差別意識)を根底にもって発せられる言葉だ。

徹底的な差別意識から発せられるものである以上、相手を同等の人間として認める前提から始まる「ウコチャランケ」とは全く違うものだという事を明言しておきたい。

 

 

「だから、チャランケって大事な事なんだよ」と言ったその言葉は、チャランケというものはアイヌが互に相手を人間として認め合い尊重し合う中での論争を意味しているのだ。

ウコチャランケとは決して人を貶める「言いがかりの論争」や「侮蔑の発言」ではないということを知り、語り合いの大切さを学ばなければならないと思う。

 

 

時として「チャランケ」もあっていいだろうとは思う、やらなければならない時もあるだろうとは思うけれど、しかしながら私たち『新聞読んで語ろう会』の語り合いは、原則的にはukoitak(ウコイタ=穏やかな語り合い)でありたいと、私は願っている。

 

最後に一市民の素朴な気持ちとして、一つ付け加えておきたい事がある。

ヘイトスピーチを厳罰化しない大きな理由は、『表現の自由の保障を断固として最優先させる』という、まさに日本政府の憲法重視の姿勢の表れという事なのだろうけれど、そうした表明と同時進行して、日本政府はジャーナリズムに対しては『表現の自由以上に公平性と称する価値観を強要する』制限や圧力をかける向きが強く、また自由な表現の場となる筈のアートの展示などにも制限を設けるという事が起きていて、それが私には『大きな矛盾』として見えているという事を一こと言っておきたい。

20191211『新聞読んで語ろう会』例会の報告(2)

 

 

12月11日の例会、2つ目の題材は12月10日の北海道新聞[P.5総合]、

「来年度予算案 最大更新―ポイント還元1兆円到達も《都市で増加、目立つ地域格差》」という記事です。

 

この記事は、消費税を10%に上げる事による消費の変動(駆け込み需要とその反動による消費の落ち込み)を、出来るだけ少なくするという目的で導入したキャッシュレスによるポイント還元制度のため予算が膨らんでいて、それに充てる政府の還元額が1兆円に達するという内容です。

 

この1兆円規模の還元になっているという事は、ポイント還元制度が消費税を上げても消費が落ち込まない、消費の落ち込み幅が極端に大きくならないようにするということが目的の制度でしたが、実際にその制度を利用する業者や消費者が、想定を上回っているという意味が込められています。

 

ポイント還元を上手に利用すれば、増税の一時的凍結どころか実質的な減税にまでなる事例も出てくるようです。

 

この還元額の増大(ばらまき)をよそに、私自身の消費では還元措置が出来ていません(やり方がよく分かっていない)から、とても不公平感を感じているところです。

 

その不公平感の最中で、ある意味「徳をしている人」が一方ではいて、その人たちの徳のために予算が想定を上回っているという記事に、不公平感を通り越して差別感まで起きているというのが現在の私の気持ちです。

 

こうした、憤りの一念でこの記事を持ち込みました。

 

皆さんに質問しました。「ポイント還元の仕方は、わかっていますか?」

 

年配者は皆「NO!」です。やはり明らかに差別されている感じがしますが・・・・。

 

何故すべての国民に等しく還元されるような制度を考えようとしないのか?と思う訳ですが、何となく世の中の風潮は「やろうと思えばすべての国民がやれるようにドアは開いているのに、やらないその人の『自己責任』でしょう」という声が聞こえてきそうなところもあります。

私の一番嫌いな言葉の一つ『自己責任?ですか?

 

比較的若い方が、「よく分かっているわけではけれど、とりあえず支払いはキャッシュレスにしておこうかなと、心がけてやっています」というお話ですが、ここから語り合いとなります。

 

このテーマから最初に口火を切った意見は、「そもそもの消費税の出発時点の3%時代から、今後増える社会保障費・福祉に充てるとしてスタートしたはずだったのに、どう見てもそのような使われ方をしてこなかったと思っている。」

さらに「福祉に充てるというのなら、消費税を目的税にするというならまだ分からないでもないけれど、そうしないでいろいろ別な事に使えるようにしているのは『詐欺』のようなものだと思う」という話へと続きました。

 

*消費税がどのように使われているのか?という疑問に対する国の答え(これは詐欺か?)はこうなっています。

消費税の使途に関する資料(財務省)https://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/consumption/d05.htm

 

消費税を増税してきた経緯の中で、その目的を説明する国と、それがどうもその通りにはなっていないのではないかと思う国民感情。

 

補足の意見として、「例えば共産党は、消費税を始めた当初から、その税収分とほぼ一致する額が企業減税分、高額所得者減税分の額になっていると主張していますが、その計算はほんとうにそうなっているんでしょうか?そうだとすると、結局金持ち優遇のための消費税増税という事になるのでは」という質問。

 

確かに企業減税や高額所得者の減税はどんどん進んでいると聞いているという意見。

 

*この件については、こんな記事があります。

金持ちが得する消費税のカラクリ 増税タイミングは最悪と識者https://news.livedoor.com/article/detail/17060996/

 

消費税問題が中心になった語り合いは、税金全般の話に向かい、「補正予算が当たり前のように簡単に出来てしまう事がおかしいのではないか?もともと年度の予算をしっかり吟味して立てているはずなのに途中であれが足りないこれが足りないみたいに追加しているのって、何のために時間かけて本予算を組んでいるの?」という意見。

 

このお話には、安易な予算を組んで、税金の使い方がどんどんいい加減になって来ているんじゃないか?という気持ちがこもっているようです。

 

*補正予算については https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%9C%E6%AD%A3%E4%BA%88%E7%AE%97

 

話はさらに地方交付税に移って来ました。

(*地方交付税は「国が地方に替わって収税して、地方の格差を是正するなどの目的を持って配分する、『もともとは地方のもの』という概念」が私たち国民にはあまり分かっていないという事なのかも知れない、そういう前提での語り合いとなってしまった感があります)

 

地方交付税の配分を、政府が恣意的に決定できるようになっていて、地方行政をやる側の方がその仕組みをちゃんと把握できないほどに複雑になっているようだというお話が出ました。

 

特に地方債の返還について、それを地方交付税に振り返るような仕組みがあってその辺の事がものすごく分かりずらくなっているようだという話や、更に財政投融資との関係においての難しさの話も出ました。

 

*地方交付税についてはhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%96%B9%E4%BA%A4%E4%BB%98%E7%A8%8E

*地方債と地方交付税については(P.9参照) https://www.soumu.go.jp/main_content/000604089.pdf

*地方債と財政投融資の関係は  https://www.mof.go.jp/filp/summary/filp_local/tihousaiseidonogaiyou.htm

 

税金配分の複雑な仕組みはまるで国民に対する目くらましではないかという思いから、話はポイント還元に戻り、本来は消費税増税分のお金を回すはずだったところにまわさず、還元対象手続きをした人にだけそのお金の一部を回しているというこのポイント還元の制度もまた国民に対する目くらましのようなものではないか?という話が出ました。

 

話はその「回すべきところ」の話になり、教育無償化がどういう経緯だったのかという事で高等学校無償化で朝鮮学校がその対象から外されたのがどのような流れだったかという話になりました。

 

高等学校の無償化は民主党政権時代から始まったという事では皆同じ認識でしたが、その時にすでに朝鮮学校が対象から除外されていたという意見が出ました。

「え!本当にそうだった?民主党の時には除外はしていなかったのではなかったっけ?」

「いや、民主党が除外したので、当時私は抗議したのだから間違いない」

このような会話が続き語り合いは錯綜しましたが・・・・。

 

*この件については、正確には民主党政権時には朝鮮学校も対象にするという位置づけでは決まっていたものの、当時の野党(保守系)側からの(「テポドンの発射実験があったり、拉致問題が解決されていないなどの状態での朝鮮学校への補助は認められない」などの)強烈な抗議を受け、執行を保留した状態が続き、さていよいよ朝鮮学校も無償化を実行しようという時に政権交代が起き、安倍政権になった直後(確か、ほんの数か月後)には無償化の対象から正式に除外された、というのが経緯だったようです。

更にその後、朝鮮学校の卒業生たちが裁判を起こした結果、大阪地裁では朝鮮学校無償化からの除外は違法であるという裁判所の判決も出ましたが、その後別の裁判(東京高裁)ではこの除外を合法とする判決がなされ、今年の8月に無償化除外は合法だという最高裁の決定まで出されています。

朝鮮学校の無償化はいまだに実現していないという事で、結果だけからすると民主党時代から除外されていたのと同じようなものであるとも言えるようです。

https://imidas.jp/josiki/?article_id=l-58-257-18-10-g320

https://www.asahi.com/articles/ASM8X5Q1VM8XUTIL038.html?iref=pc_ss_date

 

 

さて話はポイント還元から何度も脱線したのですが、もう一度話を戻しての語り合いを行います。

 

「ポイント還元という今回の制度はともかく、これを機会にキャッシュレスという方法をちょっと積極的にやってみようかなという気持ちになって始めています」というお話からの語り合いです。

「キャッシュレスをやると、それなりに便利だなあという感じがします」という意見。

 

キャッシュレスでの支払いとポイント還元の目的とは必ずしも相関関係があるわけではないはずなので、ポイント還元は副産物と思ってキャッシュレスに焦点を当てて始めてみようという考えの人もいるという事はあるようですが、実際にはこのポイント還元を餌にしてキャッシュレス化を進めようというのが政府の狙いなのではないかという意見が出ました。

 

政府が何故キャッシュレス化を進めようとする必要があるのだろうか?という疑問。

 

現金取引ではお金の流れは把握しにくい、タンス預金をする一つの理由にもなっていると思うのだけれど、キャッシュレス化にするという事は必ず金融機関を通してのデーターの流れでお金が動くというような事で、すべてが記録に残る事になる。お金の流れを然るべきところが把握しやすいシステム、極端に言えば監視社会の一部が形成されるという事だと思うという意見。

 

その後、「キャッシュレス決済という事は、現金が直接払われるのではなく、例えばクレジットカード払いであれば1ケ月とか2ケ月後払いみたいになる、という事は短期間だけれど借金しているようなもので、そういう借金でものを買っても個人消費が先取りで計上されるとか、GDPの値がその分先行的に高くなるみたいな、最近の行政はいろいろとごまかすような事とか、証拠を隠滅するような事を日常的にやっているようなので、キャッシュレスでもそういうことがあるとすれば、そのやり方は怪しいのではないか?」という意見も出ました。

 

(*さてこの語り合いの中でのいろいろな意見は、一市民が個人的に思っている事で、正しい事を言っているという事ではありません。あくまでも市民レベルでの語り合いで、このような考え方が出て来ているという事です。真偽について興味を持った方が、自ら調べて行くきっかけとする、一つの起爆剤としてお読みいただければと思います。「こういう語り合いの場に自分がいたらどう発言するのか」などを思い浮かべながらお読みいただければと思います)

 

今回は、ポイント還元やキャッシュレス化に対して「(やや)積極派」と、「否定派」と言うよりは、「ついて行かれない派」それぞれの立場でのお話が出ました。

 

「いつだって、私のふところ、キャッシュレス!!」

今回はここまでです。



 

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『新聞読んで語ろう会』は新聞、雑誌、ネット記事、書籍など、気になるものを持ち寄り、市民目線で語り合う会です。

普通の市民が、生活のこと、政治のこと、社会のことを、あまり生真面目になり過ぎずに楽しく語り合いながら勉強?しています。

このブログを通して、会で見たこと聞いたこと感じたことなどを、連絡係の視点で皆さんにお伝えしようと思います。

連絡先: kataroukai123@yahoo.co.jp

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