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2019年10月30日『新聞読んで語ろう会』例会の報告

 

 

今回題材にしたのは、前回(10月16日)にも一部だけ引用し持ち越した記事で、『マガジン9』雨宮処凛がゆく!より、《命の選別は「仕方ない」のか?~『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』の巻》という(9月4日付け)記事です。


 

記事の内容は、雨宮処凛さんが今の日本を『不寛容さに満ちた状況』だと感じ、その根拠をいくつか挙げながら進んで行く。

そうした不寛容の果てに障害者施設「津久井やまゆり園」での殺傷事件、いわゆる『相模原事件』が起きたこと、そしてその犯人である植松被告の主張が書かれているが、一見ごく普通の青年が理路整然と犯行へと至る彼のその「理路整然とした思考回路」について、雨宮処凛さんが抱く疑問とともに、その解決の扉を開けられないかとして、6名の方と対談したものを本にする。

こういう流れで書かれた記事ですが、後半は書かれた本『この国の不寛容の果てに』の、序章の一部分を軸にして書いているものです。

 

今回も、「人間のいのち」という重い題材となりましたが、この記事載っていない、序章の最後の部分をコピーして持ち込み、合わせて語り合いの題材としました。

 

その部分には、不寛容の時代ではあるけれど希望もあるという内容で、相模原事件後の障害者の集会でのエピソードが書かれています。

 

知的障害のある女性がマイクを持っての言葉、「私は、生まれ変わっても障害があるいまの自分がいい」

集会の舞台で近くにいる車椅子の男性に、「障害がある自分が好き?」とたずね、男性ははっきりと「好き」と答えるという部分。

 

今の自分を受け入れて、生きる事を肯定している障害を持った人々の生きる姿勢に光明を見出しています。

 

今回は凄惨な事件から見えてくる『命の選別』という言葉が題材という事で、参加者の語り合いの口も前回以上に重くなりがちでした。

 

語り合いでまず最初に出た確認の言葉は、「この犯人という人は、事件を起こす前に、国会だか国会議員だかに障害者に対する大量殺害予告のような、その正当性を主張するような手紙を送っていたっていう事でしたよね」という発言です。

 

記事には≪「障害者470人を抹殺できる」と、それが「世界経済と日本のため」だと衆院議長に宛てた手紙に書いた植松被告は、今も獄中で「日本の借金問題」についてさかんに言及している≫と書かれている、そこの部分を確認しました。

 

この口火を切った参加者の続けての発言は、雨宮さんがこの記事で「あってはならない」と主張している『不寛容』の原因でもある(生きていてよい命と、死んだ方がよい命という)命の線引きについての考え方について、自分が現役で働いている時は無意識のうちにこれに近い考え(生きてて意味のない奴がいるなあという感覚)(自分は汗水流して働いて税金収めているのに、その税金で生きている人間がいるという不公平感を無意識にも感じていたような気持ち)があったような気がしていて、記事を読みながらなんだか居心地が悪いような気がしたということ、そしてこのような弱者に対する差別意識のようなものはけっこう多くの人が無意識のうちに持っているのではないかという印象を抱いているという感想です。

 

続けて、勿論今はこういう雨宮さんの記事ような主張はじゅうぶん理解できるし、「命の選別」などは絶対にダメだと思えるようになっているのは、現役を終えて時間が出来てこういう『語ろう会』とかに参加したりいろいろな講演などを聞いて自分なりに考えて行くうちに考え方が変わったという事が分かるので、やはりちゃんとした教育を受けるという事がいかに重要かという事を実感しているというお話です。

小さなころから、きちんと『人権』とかの教育を受けていれば、この犯人のような考え方に至ってしまう人間もずっと少なくなるだろうと思うという意見でした。

 

このお話から、では「自分は子どもの時に人権教育をしっかり受けた」という人はいますか?という質問が出て、しばしの沈黙。

 

そして、「いや、私はちゃんと人権教育を受けましたよ」という声が上がります。

 

これはとても皮肉なお話だったのですが「私は、子どものころから競争に勝ち抜きなさいと教わった。あんたは男でしょ!とまで付け加えられて、ずーっと競争する事を教えられて育った。私の受けた、これが人権教育だったのです」というお話。

「いやいや、それは人権教育とは言わないでしょう」という声にも、「いや、私が受けた人権教育というのは、こういうものだったんだから」と、一歩も引かない。

 

という事で、人権教育ということ自体があいまいな概念になってしまうような印象を、やや誇張しての語り合いとなるほど、私たちは自信を持って人権教育を経験していない事を裏付けるようなお話となりました。

 

いわゆる主要五科目(国語、数学、理科、社会、英語)で点数を競いながら成績順位(序列)を決めて、椅子取りゲームをするような時代に育った中で、その主要五科目から少し外れているような「倫理社会」のような科目は明らかに軽視されていた記憶があります。

 

私、連絡係(Y)の経験では、高校時代の『倫社』の先生は東京教育大(現在の筑波大)の新卒でとても熱っぽく授業をしていたけれど、曲がりなりにも受験校と言われていた我が高の同級生たちは、『倫社』の時間は息抜き時間のようにたるんでいたことを思い出します。

そして『倫社』の時間をぶったるんで過ごしていた連中が、受験に勝ち抜き、出世街道に乗っかっていたことも思い出します。

 

人権教育というものが重要科目とはみなされなかった戦後復興時期に、日本人の人権感覚というものが形成されたという事かも知れないと、あらためて感じました。

 

 

さて語り合いでは、他者に対する思いやりという感覚の欠如あるいは歪曲から起きたような事件の話から突然の話題変更での発言がありました。

 

「最近は、地下鉄で自分の横に荷物を置いて席をふさぎよけない人間が増えて来ている。急にそういう人が多くなって来ているようで異常な感じがする」という話です。

 

ここから延々と「今の若いものは、云々・・」の話が続きました。

その中で、実は若いものばかりではなくそれなりに年齢の高い人もそういう人は増えているという事も出てきました。

そこでやり玉に挙がったのが『スマホ』。

スマホに夢中になって本当に気付かないのか、分かっていても気付かない振りをして荷物をどけようとしないのかは分からないけれど、やはりスマホの普及が影響しているのではないか?というところが落ち着き先となりました。

 

「雨宮処凛さんは、不寛容という言葉を使っているけれど、不寛容ではなくて無関心か無関心を装う、そういうことなんじゃないだろうか?」という意見に対し

 

スマホに夢中のふりをして、目の前にいる他者に目もくれないのは無関心かも知れないけれど、雨宮処凛さんの言っている不寛容というのは、もっと攻撃的な排他的なことだと思う。目の前にいる人に無関心なのではなく、その人の存在を非難する。存在を否定する。邪魔にする。だから不寛容と言うのだと思う」という意見が出ました。

 

こうした不寛容の事例になるかどうかは分からないけれど、いくつかの事が取り上げられましたが、その一つにエスカレーターの乗り方。

右側の手すりにつかまって乗っていたいけれど、後ろから突き飛ばされるのが怖くて出来ないという意見と、エスカレーターの右側を開けておいて、急ぐ人がそこを駆け上がるというローカルルールは、うまく出来た方法だと思っていたという意見に割れてしばしの語り合いとなりました。

 

本来は、労力を使わずに「ゆっくり上がるエスカレーターを皆で利用する」というものだったのが、一部の(急いで上がりたい、降りたい)人の「我がまま」のために、よけて通してあげなければ危険な目に合うような事で良いのだろうか?という意見が正当性を持つ事で収まりました。

結局現代人が「急ぐ」という理由で、走り回っているという生き方そのものに問題があるのかも知れないと感じる語り合いでした。

 

「エスカレーターを走り抜けなければならないくらいに忙しい現代人」という視点で見てみると、ミヒャエル・エンデの『モモ』という童話の事を思い出してしまうのですが(童話にしてはテーマがとても難しかったけれど)そこに登場する【時間泥棒】たちに、私たちの生活はすっかり支配されているのかも知れないなあという事を思い起すお話でした。

 

話題は再び障害者施設「津久井やまゆり園」での殺傷事件に戻り、いわゆる『相模原事件』の植松被告の犯行動機について語り合いました。

 

かつて、こうした大量殺傷事件の犯行は、どちらかと言えば無差別的な犯行で、例えば「死刑になりたかった」というような動機であった例が多かったような気がするけれど、こうしたいわば自暴自棄になる経緯と、今回雨宮処凛さんが取り上げた相模原事件とは全く違うような気がします。

 

植松被告は自暴自棄とは正反対のような、はまるで本音の正義を、きれい事ではないむしろ暗闇のような正義を実行して見せた、自分では社会正義を正直に実行提示した、自分は責任を果たしているのだと胸を張っているようなところがあるようです。

 

まさにその正義こそ「命の選別」という誰もやりたがらないような、しかし(国家の財政が年々悪化している)今の世界には必要な正義だと思い込んでいる。ここに踏み込まない人間は無責任だと断じるのです。(接見した人に、強がっているだけなのかも知れませんが)

 

自分は正義感でやっているのだという話は、実は最近多いかも知れません。

運転の仕方が悪い車(と決めつけている、思い込んでいるだけの様だが、そういうターゲット)を見付けては、その車をあおったり停車させて運転者を殴ったりした男は、自分の正義感でその「悪を懲らしめてやった」と言っていたと報道されていました。

 

この例会を行った時点ではまだ起きていなかった事件で、小学6年の女子児童をSNSを使って呼び出し自宅に連れて行った男も、「(その女子児童を)助けてやった、正しい事をした」と言い張っているようです。

 

個人個人が正義感を持っている事は悪い事ではないでしょう。

しかし個人が制裁を下すという、いわば「私刑」的な考えが横行する背景には、公の力による社会正義の維持が望めないと判断されて来ているという事かも知れません。

 

国自体が法治国家としての機能を放棄している様相もうかがえる昨今です。

 

警察は、何か別の方向に熱心になってしまっていて、社会生活上の(一般国民の生活を守るという)正義を維持する装置として働いていないという不信が、社会全体に無意識のように蔓延し始めてはいないかが問われているのかも知れないと感じます。

 

 

地下鉄やバスの座席に荷物を置いて、ひたすらスマホをいじって、人がそこにいる事に気付かない、あるいは気づかないふりをするという事と、自暴自棄になって大量殺傷事件を起こしたり、正義感で大量殺傷事件を正当化する考えを持つ人間が出てくるということには、何か根底でつながっているというような事があるのではないか?社会に何か問題があるのではないかと思うという意見が出ました。

 

こうした大きな事件が起きた時に、何か社会に問題があるという可能性を追求すべきだという意見と、それは犯行を起こした人間の個人固有の問題で社会に問題はないという方向で納めてしまいたいとする力が、いつもせめぎ合っているような気がしていて、どちらかと言うと今の社会の体制が自分たちに都合が良いと考えている勢力の方が、社会問題をほじくり出したくない思いがあって、そっちの方が今は権力的に強い。だからいつも個人の問題にして社会問題の掘り起こしが出来ないような気がするという意見に、参加者がうなずいていました。

 

「個人の問題で納めてしまってはダメでしょう?大々的に社会問題として誰かが取り上げないと」

という意見に対して、「一般のメディアがなかなかそういう姿勢で報道しないから、雨宮さんがこういう本を出しているんだと思います」という意見でひとまずの決着。

 

こうした語り合いで取り上げる事も大事なことだと思いました。

 

 

さてさて、今日は11月27日。

本日例会を行う日となりました。

今日の例会の報告は、もう少し早くできるよう、


頑張らなくっちゃ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年10月16日の『新聞読んで語ろう会』例会の報告

 

 

今回取り上げた題材は一つにしぼられましたが、それがとても重たい内容です。

一ことで言えば「生命倫理」についてとなります。

取り上げた記事は主に一つだけなのですが、途中同じ「生命倫理」を題材にしたような記事(後述します)からも引用しての語り合いです。

 

いつもは、2つ3つの題材での語り合いが多く、報告も分けて書いてきましたが、今回は一つの題材ですので、2時間の語り合いをたっぷり書くことになります。

「生命倫理」を題材に、市民がどのような語り合いを繰り広げるのかという内容となりますので、ご覧頂ければと思います。

 

 

今回主に題材にした記事は、10月13日付の、朝日新聞のWEB投稿サイト『論座』に掲載された、松永正訓氏の《障害を持ってうまれた子を受け入れるという事》という記事。

 

サブタイトルは《小児科医はなぜ、『いのちは輝く わが子の障害を受け入れるとき』を書いたのか》

 

この記事は無料記事ですのでどなたでも全文読むことが出来ますので是非アクセスしてみてください。

https://webronza.asahi.com/national/articles/2019100800008.html

 

重い障害や病を持って生まれてきた赤ちゃんをどう受け入れるのか? とても重いテーマです。親だったら、医者だったら、立場によっても、またその人の人生観によっても捉え方はさまざまで、「正解」は簡単にはでません。小児科医として長年この問題に向き合い、このほど『いのちは輝く わが子の障害を受け入れるとき』を上梓した松永正訓さんに、幼い命をめぐり、親が障害や病を受け入れることの難しさ、医師の苦悩について、書いていただきました。(論座編集部)》

 

以上この論座編集部の前書きですが、ここからも分かるように記事の内容は、障害や病気をもって生まれてくる子どもの治療をしてきた小児科の医師が、「生命倫理」に関する思いを綴った本を出した、その出版の意味などを筆者が自ら書いたものです。

 

内容は、医療現場での思いを何故書き綴るようになったのかとか、もともと読売新聞オンラインでの松永氏の連載記事を出していた、その記事をもとにした本である事など、この本の出版の経緯。

重い障害や病気によって、子供はどういう状態で生まれてくるのか。

そのような子どもを育てる環境としての日本の福祉制度の問題点と、社会保障に対する国民の考え方受け止め方などの問題点。

出生前診断についての考え方、そして「生まれてくる子の命」の事についての思いなどが書かれた記事です。

新聞に連載されていた時読者から来るお便りや意見の内容についても綴られていますが、障害児(者)に対する、国民の様々なとらえ方がある事も書いてあります。

 

ここまで書きながらも、「ふう―」と一息つかなければならないような「重み」があります。

しかし松永氏が本を書く動機として言われている事は、「生命倫理」という重い題材を専門用語を使わずに書くことが出来ればこの課題を多くの人にも考えてもらえるのではないかという判断があったようです。

そういう意味では、専門家ではない私たち市民がこういう重い題材にも目を向けて語り合うチャンスが来たのだという事かも知れません。

 

松永氏は導入部分で『赤ちゃんの体にメスを入れるたびに、「命とは何だろう」と考えざるをえませんでした。すでに研修医の頃から、そうした難問を突きつけられていたように思います。』と綴っています。

 

 

語り合いです。

 

まず、「出生前診断によって異常がある事が分かる」というのは染色体の異常が見つかるという事なんですよね?という質問から始まりました。

 

そういう事だと思うけれど、そこで異常と診断された時に「生まない」という選択肢が多くの場合あるという事になっているのだけれど…という話に進みます。

 

記事にはこう書かれています。

《障害のある胎児を人工妊娠中絶することは法律で認められていません。当然、障害胎児の人工妊娠中絶は倫理的に立派な行為とは言えません。妊婦の決める権利が最優先され、胎児の生命が軽く見られる考え方には危うさがあると指摘しておく必要があるでしょう。》

 

語り合いに戻ります。

 

しかし胎児に障害があるという情報を得た場合、現実には別のいろいろな理由を付けるなどして人工妊娠中絶を選んでしまうケースが80%ぐらいあるというような事を聞いたことがあるという意見。

 

どうして、出生前診断をするのだろうか?という疑問に対して、高齢出産が増えて来ているので胎児に異常が出る場合が多いという事もあるのではないだろうかという意見。

 

https://www.huhs.ac.jp/studygroup/kazoku/prenatal%20testing%20leaflet.pdf

 

何故、障害を持った子供が生まれるという事に否定的な考えが多くなるのだろうという疑問。

 

日本の場合は、昔は自分の家に障害児(者)がいるという事を隠したがったりする事が多かった。

それは一種の恥であるかのような考え方だったような気がするけれどその延長上に未だあって、なんとなく人前に触れさせないようにしようとする家庭もあるようだし、またそういう人に対しての他者からの偏見や蔑みや、排除したがる社会風潮が未だに残っているようで、障害を持った子ども(人)も、その家族も、とても苦しい思いをする事が生まれてくる前から予想されたり、まわりからもそれを理由にいろいろ言われたりして生まない方が良いと判断してしまう事になってしまう人もいるのだろうと思うという意見。

 

あわせて言えば、障害児(者)が自分の家にいれば、母親などは仕事に行く余裕もなく面倒を見てやらなければいけないとなると、ただでも共働きでなければ生活するのがたいへんな今の社会で、経済的にも負担が大きくなる事があるので、(出生前診断で)分かってしまうとなかなか生むのが難しい気持ちになってしまう、倫理の問題というのではなく経済的な理由という事も言えるのではないだろうかという意見。

 

それは、経済の問題という事なのか?そういう家庭をささえる社会体制が出来ていないという風には言えないだろうか?という意見。

 

確かに、経済的に追い詰められるような事がない社会環境ならばいいけれど、現実にはそうはなっていないのだからという意見。

 

この厳しい現実の中なのだから仕方がないという話になってしまうと、日本という国は障害児(者)にはずーっと生きずらい社会が続くっていう事になってしまって本当に希望が持てなくなってしまうのではないかという意見。

 

そういう意味でも、市民がこうした問題を勉強して変えていかなければならないだろうという意見。

 

ここで、9月4日にWEBサイト『マガジン9』で掲載された雨宮処凛さんの、《命の選別は「仕方ないのか」~『この国の不寛容の果てに相模原事件と私たちの時代』》という記事についての話が出ました。

https://maga9.jp/190904/

 

この記事も今回の持ち込み記事でしたが、雨宮処凛さんが相模原事件について、6名の方と対談した本を出版した事を題材にした内容です。

(この事件を一言で表すのは良くないのかも知れませんが、障害者施設の元職員だった青年がその施設に押し入り、障害者や施設職員に対しおこした大量殺傷事件)

 

この記事の中から

 

2007年、世界各国で、貧困問題への意識調査が行われた(The Pew Global Attitudes Project)。そこで「自力で生きていけないようなとても貧しい人たちの面倒をみるのは、国や政府の責任である。この考えについてどう思うか?」という質問に対して、「そう思わない」と答えた人が突出して多いのが日本だった。実に38%の人が「助けるべきとは思わない」と回答したのだ。

他国を見ていくと、ドイツでは「そう思わない」と答えたのはわずか7%、イギリスでは8%、中国では9%、そして「自己責任社会」と言われがちなアメリカでさえ28%だったという。

 この調査がなされたのは12年前。今、同じ調査をしたら、もっと多くの人が「国や政府は助けるべきとは思わない」と答えるのではないだろうか。そんな予感がするのは私だけではないはずだ。

 

という部分が取り上げられ、日本の国民意識の特徴がこのような形で表れているのではないかという意見。

 

再び、松永氏の記事の内容に戻り、

 

>障害児にお金をかけることは、社会保障費のムダだという意見もありました。障害児は将来税金を納めないので、国からの一方的な支出になる。自分の税金がそういうところに使われるのは、納得できないという意見です。

 こうした意見に対しては、「私たちはいつか高齢者になり、いわば障害者のような存在になるのだから、お互いを支え合うために社会保障費は必要である」という反論もあります。ところが驚くべきことに、こうした意見に対してもさらに反論がきます。「高齢者はかつて国のために税金を納めたのだから社会保障の対象になるのは許せるが、障害児は生まれたときから国の世話になっているので、高齢者とは同列にできない」と言うのです。

 そんな考え方がまかり通ったら、大変危険だと私は思います。<

 

という部分が(雨宮処凛さんの記事の統計で現れた事と共通するのではという思いで)引用され、日本人の心の奥底に、こうした障害児(者)に対する存在否定論のような考えがあるのかなと危惧する意見が出ました。最近のヘイトスピーチなどがこうした考えと共通しているのではないかという不安も話されました。

 

しかし松永氏の記事はそのあと、社会福祉がなぜ必要なのかという事から、障害児(者)を排除するような考え方を明確に否定しているので、それで少しほっとして良い記事だなと思ったという意見です。

 

ここから、自分が体験的に感じた事をお話されます。

 

障害を持っている人がいないほうが良いような事を思っている人も多いのかも知れないけれど、実際に障害を持っている人といわゆる健常者の人が両方いる社会の方が、何かほっこりするような事があるなあと感じたエピソドがあるというお話がありました。

 

全国から親戚一同が集まって法事をするという時に、直前で車椅子でしか移動できなくなってしまった年老いた叔父が険しい山の中にあるお墓にお参りをしたいという希望を言われ、それを実現させてあげようと、一生懸命助けながら手伝う親戚の人の姿を見た時に、皆がそれを見て感謝しながら温かい気持ちになれて、障害者がいる社会というような事を考える時にその場面を思い出して、障害を持った人がいるという事の意味について前向きに考えるきっかけになった。

体の弱い人を皆で助けるという行為が社会に温かみをもたらすという実感を得られる、そういう社会の方が良いなあと思うというお話です。

 

 

再び、障害者に対する社会制度についての意見が出ます。

 

老人に対しては介護保険制度があって、制度的に十分かどうかは別としても一応形になっているのだから、障害者に対してももっと手厚い制度にしようと思えば出来ない訳ではないのではないだろうか?という意見。

そういう制度が充実すれば、母親が仕事に行けないとかも解消できるとか、やり方をもっと考えた方が良いのではないかという意見。

 

とは言うものの、今は介護保険にしたって当初よりも内容がだんだん削られて行く傾向にあるんじゃないかという意見。

 

国の福祉に対する考え方が、初めから予算の枠を決めてしまっていて、例えば介護を受けなければならない人が増えてくるとか、生活保護受給者がふえてくるとかするとその分一人当たりに割当たる額を減らすしかないみたいな考え方、基本的に一人ひとりの人間が人間らしく生きることが出来るために国として必要なものというものがあって、政策でそれを国が何とかしようという発想ではないような気がするという意見。

 

とても違和感を感じる事があるのだが、例えば消費税の増税などに関して街中でインタビューすると、国民の中に「これから高齢化社会になるからお金が必要になる」だとか、「国の財政がたいへんな状態なのだから仕方がない」のようなコメントをする人がいる。

私たちが主権者なのに、主権者の私たちが困るような事をする国の政策を気遣うような事を言うのは何だか変だなと思。主権者として「福祉予算を増やせ」とか「年金を上げろ」とか言うなら分かるけれど、政府が本当のデーターを出しているのかも怪しいと言われる様になって来ている時に政策を擁護するのだから日本の政治家は本当に楽なものだと思うという意見。

 

出生前診断という事について、『ダウン症の親の会』のような団体がこれに反対していて、生まれてくる子供に出会う前から、もうその出会いを切ってしまうような事はしないでほしいという事でした。

自分も介護の現場に携わっているけれど、障害者がいる人の家に行く事もあるけれど、(多くのケースを見ているという訳ではないけれど)そういう家庭が何故か家族として幸せそうに見える、不幸せには見えないという事から考えてみて、障害者が身近にいない人ほどネガティブに考えていて、(社会がもっとオープンになって)例えばもっと障害者がいる家庭との交流が出来る場のようなものが多くなれば偏見がなくなっていく(ダウン症という診断を受けても中絶するというような判断をしなくなる)のではないだろうかと感じているという意見。

 

更に、そういう交流の場で障害のある子どもや人との出会いがあれば、雨宮処凛さんの記事にある38%の人々の割合も減っていくのではないだろうかという意見です。

 

もう一つ思い出したこととして、10年ほど前に名前は思い出せないのだが芥川賞かなにかをもらった男性の作家が自分の親を介護した事を小説にしたものがあって、その「母親が亡くなってしまった後は自分の必要なものしか作らなくなったけれど、親が生きている時はいろんな食事やプリンなんかを作っていた事を思い出し、母親が亡くなってしまった後の自分に潤いがなくなったと気づく。」という内容の部分があって、誰かのために何かやる事があるという時に、その人自身も豊かになっているという事を感じたという内容を思い出したという事です。

身近に(障害のある人、助けが必要な人が)いる事で、こういう気付きもあるような気がして、やはり身近にいない(あえて避けている)事が偏見を大きくしているような気もするという意見も出ました。

 

さて連絡係(Y)ですが、この小説家とその小説の内容について、後日発言者の方から連絡頂きました。

小説家は2004年の芥川賞受賞者「モブ・ノリオ」氏で、小説は『介護入門』

ただし、プリンを作ったエピソードのような事はこの小説の内容ではないみたいで、何か別の記憶と混同して発言してしまったようだという訂正のメールでした。

 

私たちの「語ろう会」は学術会議ではないのでままある思い違いは仕方がないですし、そういうかん違い事を皆がやりながら巷の会話が進んで行って、思わぬ思い違い同士が思い違いの共有などしながら社会が構成されていたりする、市民レベルというのはそういうレベルにあるのだけれど、こうして間違いに気づいた時にこそ皆で少しづつレベルが上がっていくという良い流れというものが出来るチャンスにもなるという事を感じています。

 

 

さて、語り合いに戻ります。

 

皆さんの身近には、障害を持った方などいらっしゃいますか?という質問。

 

これに対し、重苦しい空気を一変するためなのか、「自分がひどい認知症のような状態になってある筈のない札幌駅周辺あたりで自分の家を探していた。それは夢の中なんだけど。こんな夢初めて見て、目が覚めてもここはどこだとしばらく分からないぐらいに動揺していた」という少し和やかになるお話でした。

 

その次に身近な方の事で思い出されたお話。

 

海外出張が長い職場にいたためもあり母親とは一緒に暮らすというような事がなかったけれど、母親が重度のアルツハイマー病を患ってから一緒に暮らすようになった。ご飯を作ったりいろいろそばでやる事が出来た。母親が病にかからなければずっと面倒など見ないでほったらかして離れて暮らしていたかもしれないけれど、母親の病のおかげで一緒に暮らせる機会を得られた気がする、とこちらはしんみりとしたお話となりました。

 

 

この「しんみり」を打ち破る発言、(雨宮処凛さんの記事に出た)「38%というのは違うんじゃないだろうか?」という意見が出ました。

 

確かに38%の人が「国や政府が、経済的に困っているような人を助ける必要がない」と答えたからと言って、困っている人は助けなくてもいいんだと言っている訳ではないんじゃないか?という意見です。

国や政府が助ける必要はなくても、自分の身近にいる人が困っているのを見たら大概の日本人は助けようとするんじゃないだろうか?だからどうも38%というのが違う感じがするという意見です。

 

この事でしばしの語り合いが、すれ違うように続きました。

 

戦後の復興の時期は、伸びしろが十分ある時代でもあったので、国民は競うように『もっとイイ何か』を目指していた。

しかし実は教育的にずっと競わされていて他者を押しのけてでも蹴落としてでも頑張る事が、結果として日本の発展につながるし、自分も豊かになれるんだと思い込まされていたし、実際そうなったような充実感も味わって来たのが現実だったと思う。

 

「頑張ればどこまでだって上に行ける」などと真剣に思っていたし、上手く行かないのは自分が悪いからだ。《自己責任》なのだなどとも思い込まされるような教育だったような気がする。

 

こういう言葉も続々と出てきました。

 

ハタと気づいたことは、どうやら国の役割が何であるのか?という考え方がヨーロッパと日本ではかなり違っていて、国や政府が国民を助けるという役目を追っているという考え方が、日本ではほとんど教育されてこなかったんじゃないかという話になって来ました。

 

だから、ちゃんと教育されてこなかった中で、国の役割に(弱者を救うような)期待をしていない人が38%いたからと言って、その人たちを悪く言ったり、これをもって日本がひどい国の状態だと(雨宮処凛さんがかなり絶望的に思っているようには)判断しない方が良いのではないか?という意見。

 

欧米では、個人の尊厳というものを重視するような傾向が強いけれど日本は家族を重視するという伝統があるという違いもあるのではないだろうか。

だから、弱者はその家族が面倒を見る、すぐに国に頼るような事ではなく一族郎党が助けなければならないような考え方、文化のようなものがあるのではないだろうかという意見。

 

日本は天皇を父と仰いでその下にいるピラミッド型の家族の末端の末端のいわゆる本当の血族の家族がまず助けあうというような文化が確かに有ったのは間違いないのだろうという意見。

 

自分が子供のころには「傷痍軍人」という障害を負った人々が、街中だとか汽車の中とかにいてそれを可哀そうに思った人がお金をあげたりしていたのをよく見かけた。

そういう風に障害のある人も世の中の見えるところにいたのがだんだん表に見えなくなり、家族の内側に引き留められるようになっていたのではないだろうか。

それが最近はまたみんなの見えるところで明るく生きているように見えるような事も増えて来てそれは良い事だなあと思うのだけれど、それをまた家族の責任の中に押し込めようという風潮も出て来ているような気がする。この押し込めようという風潮と38%の人がいるという事はまったく無縁な事ではないのではないかと思うという意見。

 

ここで、生活保護の話になり、生活保護を受けようとする人がいた時に、国がその人の家族に対して受給希望者の面倒を見る事が出来ないのかどうかを調べるという事が当たり前にあるということをどう考えたらいいのか戸惑うのだがという意見。

 

これを受けて、人気のあるタレントだか芸人だかの母親がずーっと生活保護を受けていたというのが話題になった事があるけれど、子供が結構何千万も稼いでいても親が生活保護を受けることって出来るものなのかなという疑問。

 

生活保護を受けようとする人の戸籍とか住民登録から親族を割り出して、その人に受給希望者の面倒見る事が出来るのかどうかという問い合わせをする。その時「出来ます」と答えたらそこで生活保護を受けることは出来なくなるので、自分がそういう事になった時、問い合わせが来ても「出来ません」と答えるように子供たちに言ってあるというお話も出ました。

 

どんなに有名なタレントでも、戸籍や住民票の名前が芸名と違えば役所では分からないのかも知れないねという意見。

 

「扶養の義務」っていう言葉があるけれど、親が子に対しての義務はあると思うけれど親に対する義務というのはないのだろうか?という質問。

 

そういう義務を法律にしているものはないと思うという返事。

子どもを育てる義務というのはあるんですよねという再質問。

 

ここから話が飛んで、そういう義務の延長上に「しつけ」という事があって、その度を越してしまったところに『目黒の虐待死事件』というのが起きたという話になり、しつけと虐待の違いとか、体育会系の「愛のムチ」のようなしごき虐待のような話がいろいろと出ました。

 

松永氏の記事に戻り発言が出ました。

 

松永氏の主張というのは、出生前診断などあまりしないで障害を持っていると判断された子供であっても、生かしてほしいという事なんですよね。生むか生まないかという事での考え方が一つあるけれど、それで生まれてきた子供をどう育てるのかという事とは別に考えた方が良いのではないかと思う、という意見。

 

「生むという決断」と、「育てるという事」を一括りにしてしまうと、全部母親一人の責任のように重く押し付けられてしまうような気がする、というのがその理由で、そうなると、中絶を余儀なく判断してしまうようになるのも致し方ないのではないだろうかという意見です。

 

疑問として、アメリカの民主党系の人々は『中絶する権利』のような事を言っているけれど、松永氏は例えばアメリカの共和党を占める保守系思想の『中絶反対』論のような意見を持っている人なのだろうか?という問いがありました。

 

そうではなくて、(中絶してもいいとか、してはいけないという決めつけをしない)いろんなケースがあるという事を言っているのではないだろうかと思うという意見。

 

文面で松永氏は『妊婦の決める権利が最優先され、胎児の生命が軽く見られる考え方には危うさがあると指摘しておく必要がある』と書いてあるように、やはり『中絶』に対しては否定的なのではないかと思う。

胎児には意思表示する方法がないので、それを母親の判断で代弁してしまうのが良いのかどうかというのは、「生命倫理」という大きな課題として昔からあったとと思うという意見。

 

連絡係(Y)は、生命倫理という言葉に触発されてお話したのは、私の従妹が結婚した相手のオランダ人の夫の(オランダ在住の)母親が重度の認知症で寝たきりの状態が続いた中で、兄弟で決断して「安楽死」を選択し母親は1週間ほどかけて静かになくなったという連絡を受けた事をお話しました。

 

安楽死というものの考え方についてしばらく語り合いました。

 

キリスト教は自殺は許されていないのでしょう?宗教上、自殺を否定しないようなものはあるのだろうか?という問いが出ました。

 

新興宗教ではあるのかも知れないけれど、自殺を推奨するような宗教は基本的にはないのではないかという意見。

 

仏教では第一番目の戒律が「生き物を殺してはいけない」というくらいだから、自殺も認めていないだろうという意見。

 

キリスト教やイスラム教は「自殺すれば地獄に落ちる」というような事を言っているのではないだろうかという意見

 

ただ、日本の国家神道は「お国のために命を捧げる」という事を強要する宗教だったのではないだろうかという意見。

 

そういう事であればイスラム教の『ジハード』もそういう事なのではないだろうか?という意見。

 

連絡係(Y)が、ムスリムの知人にその事を尋ねた時のお話をしました。

確かに『ジハード』という言葉の意味を日本語にすれば「戦う」というような意味になるけれど、コーランにかかれた大きな意味では「戦う相手は自分の心の中にある悪」であるという事。自分の心にある悪を見過ごしていればよい人間にはなれないから戦わねばならないという事です。

また、他の人の中にある悪が分かれば見てみぬふりをしないでそれを指摘するというそういう戦いの事だという答えでした。

また、悪という対象が国のような大きな相手になった場合にはやはり戦わねばならないという意味は含まれているけれど、『自爆する』という意味はないという事でした。

 

(後日調べで分かった事:自分の心の中の悪と戦う事を『大ジハード』というのに対し、イスラムを滅ぼそうとする者と戦う(戦争する)事を『小ジハード』と言うようです。)

 

時間も少なくなる中で、自殺という課題がでてきました。

 

日本の若年層の死因の1位が自殺だという事が取り上げられましたが、日本の国の中でこれがあまり問題として取り上げられていないような気がするという意見。

 

若年層とは、学校のいじめなんかで自殺するという事なのだろうか?という疑問。

 

ここで言う若年層というのは、未成年という意味ではなく、成人して就職もしているぐらいまでの年代が入っていると思うという意見。

 

(若者の死因1位が「自殺」の日本、なぜそんなに生きるのが「辛い」のか)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66433

 

今、日本の自殺者はどのくらいいるのだろうかという疑問。

交通事故死者数はかなり減っていてそれよりは相当多かったと思うという意見。

 

警視庁―「自殺者数」)

https://www.npa.go.jp/publications/statistics/safetylife/jisatsu.html  

 

 

第二次大戦当時の戦死者と比べたら・・・という意見に対しては「やはり戦死者の数は桁が違うでしょう」という意見。

 

飛び火するようにいろいろなお話が入り混じって来ましたが、

 

今回はこのあたりで終了となります。

 

今回の「生命観」のお話、やはり重たいものが有りましたが、それぞれの思いや疑問や考え方がいろいろと出て来た語り合いでした。

 

途中、引用で出て来た雨宮処凛さんの記事「《命の選別は「仕方ないのか」~『この国の不寛容の果てに相模原事件と私たちの時代』》は、持ち越し記事としましたので、次回10月30日(水)の例会でもう一度登場します。

https://maga9.jp/190904/

 

次回も重たいテーマとなりますが、是非読みこなして語り合いたいと思います。

 

2019年10月2日『新聞読んで語ろう会』例会報告(4)

 

今回の例会で取り上げた最後の題材は、前々回からの持ち越し記事。

北海道新聞9月16日1面《 サケ漁 権利議論に一石 》という記事と、同じ日の社会面で《 「アイヌサケ漁」告発取り下げを 専門家らが会見 》の2記事。

 

1面記事では、紋別アイヌ協会の会長畠山さんが道に許可申請せずにサケを捕獲して告発された事や、何故畠山さんはそのような行為に至ったのかなどの経緯、この件に対する諸意見や先住民族の権利が世界ではどうなっているのかなどが書かれた記事。

社会面の記事は、こうした先住民族の権利に関する専門家の人たちが、畠山さんに対する告発を止めるべきだという記者会見を行ったことが書かれています。

 

語り合いは、まずこの畠山さんの行為が、サケ漁は先住民族の権利だという事を主張するためだったという事ですねという確認の質問から始まりました。

 

日本の役所というのは『許可申請』させるというやり方、「願い申し出るという事を強制しているんだものね」という意見。

「お願いですからサケを獲らせてください」と頭を下げてこいという感じがあるよねとう意見。

 

通知をするようにというぐらいならまだ分かるけれどという意見。

 

通知も必要ないのではないかという意見。

 

では獲り放題って事になるの?という疑問。

 

記事には、ワシントン州での例で見ると年間漁獲量の半分は先住民族にあると書いてあるから少数民族側に大きな権利があるという事になるよねとう意見。

 

世界の先住民族に対する権利回復の動きから見ると、日本政府の頭は相当遅れていると言うか分かっていないと言うか、分かっていながら意地でも先住民族に対する国家権力優位性を示したがっているのではないだろうか?

この事は国連からも再三勧告を受けているのにほとんど無視しているような感じがするし、そういう事が国民にも知らされていないという意見。

 

そういう態度を取り続けるからこそ(畠山さんは10年も前からこのことを訴え続けて来たが、国も道も先送りを続けてきている)、今回のように当事者が強行突破的な事をしてでも日本中に訴えたかった、そうなってしまったのだろうと思うという意見。

 

漁業権とか水産資源保護法とかを名目にしているけれど、本当は北海道でのあらゆる漁や猟というのは、逆に「アイヌに許可を受けなければ出来ない」というくらいの意識を持つのが当たり前だという事を、和人が思えるようにならないとだめなのではないか?という意見。

 

そもそも、その漁業権というものはどうやって発生するの?という疑問。

 

そもそもっていうのは、昔からその場所で魚を取っていた人、先住民族とかという事ではなくて内地の川とか海でも、その場所で漁業を生業にしていたような人が自然に権利のようなものを持っていたというようなところがあるのではないだろうか?という意見。

 

江戸から明治になる時に法律が変わって、江戸時代には特別に権利があったわけではないけれどもともとそこで漁業で食べていた人たちが明治の法律で『入会権』として認められた

だけど、北海道においてはアイヌ民族はほとんどが川に沿ったコタンで漁業をしながら生きてきたのにそういう権利を認めず、と言うか認めるどころかその権利を奪い取ってしまっていて、それがずっと戦後まで続き、戦後1964年の新たな法律でもアイヌ和人を問わない漁業禁止みたいなことでアイヌの生存権を奪ったという、この法律自体が差別ではないかと思うという意見。

 

畠山さんが訴えたかった事は「営利目的ではない儀式に必要なサケぐらいは自由に獲らせろ」という事だと思うという意見。

 

いや、営利目的でもいいのではないだろうかという意見。

 

本来先住民族の権利としては、世界標準では営利目的も含まれているようですという意見。

 

亡くなった元参議院議員の萱野茂さんは、「北海道の中の川一本でいいからアイヌ民族に渡してくれないか?」と訴え続けていたというお話。

 

畠山さんがやった事は確かに法律違反かも知れないけれど、その法律自体が差別的だし畠山さんが目指したのは営利目的ではない儀式のためのものなのだから、道は告発などせず黙認した方が良いと思うという意見。

 

当面という事ではともかく、黙認ではなく、権利を明文化するような法律をきちんと作らなければいけないだろうという意見。

 

安倍首相の得意な『特区』というのはどうなんだろうという意見。

 

特例を与えるようなやり方はやっぱり駄目じゃないか?特別ではなく当たり前にしなければという意見。

 

そういう法律というか取り決めを和人側とアイヌ民族の間でどういう立場関係で話し合う(話し合いの「場を設けてやる」というような上から目線の対話ではだめ)というのが重要ではないか?頭を下げてお伺いに来いという事ではなく、対等な立場で話し合う必要があるのではないか?という意見。

 

今の日本の行政は、先住民族に対する理解度がお粗末で、心から対等に話し合うなどという意識がある人間はいないような気がする、という意見。

 

アメリカのワシントン州では、先住民族と州が外交関係のように条例を結ぶような関係で話し合ったようだったという報告のようなお話が出たところで、時間切れとなりました。


 

アイヌ民族に関する問題というのは、いろいろな面で複雑になって来ているように感じています。

先住民族、アイヌ民族をテーマに語り合う時間はまだまだ必要だと思います。

 

畠山さんの今回の記事に触れての私の私見をちょっとだけ付け加えておきます。

 

アイヌ文化祭などの催し物とか、一般公開でお祭りのように行うカムイノミの儀式など、いろいろな場で「もっとアイヌのことを知ってほしい。理解してほしい」と彼ら彼女らは口々に言うのを私も何度の何度も耳にしています。

 

そういう彼らの言葉、願いに対して日本政府は「アイヌ文化を知ろう」というキャンペーンにすり替えたのではと疑っています。

政府が言うアイヌ文化、それは遠い昔から伝承されて来た、そして明治政府によって断ち切られた伝統的な文化の事ばかりです。

断ち切っておきながらその昔のアイヌ文化を指さして、「アイヌってすごいね」と言っているような気がします。

 

表立って「アイヌの伝統文化の復活」に頑張っている人もいて、畠山さんもそのお一人という事でしょう。

先住民の方が伝統文化というものを基軸にしながら、先住民族の権利というものを回復するという活動を私たちは理解しなければならないとも思います。

 

しかし、アイヌの歴史遺産のような文化を理解するのも大切なことではあるけれど、今現在のアイヌの多くの民が何処でどうやって生きていくことを強いられているのか?、そこに今現在のひっそりとしたアイヌ文化があるとも思います。(文化というものが、派手派手しいものばかりという事ではなく、その時代時代で普通に生きている中にあるものも文化だと思います)

 

私は、彼ら彼女らが「もっと分かってほしい、理解してほしい」と願っているものには、権利の回復もされていないまま、そのひっそりと育まれている現代のアイヌ文化も含まれているのではないかと思っています。


畠山さんは日本中の人々に問題提起をされたのだと思います。

この記事が出たのは北海道各地のアイヌ民族が、サケの儀式を行う9月上旬。

記事になった時には数日間、道新紙上でも何度か取り上げていましたが、もうすっかり忘れ去られたようになっています。


一過性の話題で済ませてしまうと、結局何も改善されないという事、今までの政府のやりかたが続いてゆくだけです。



 

2019年10月2日『新聞読んで語ろう会』例会の報告(3)

 

 

 

今回の例会では、語り合いが迷走しまして、再び福島原発事故における汚染水の事が持ち上がりました。

 

解け落ちた燃料デブリとはどういうものなのか?

冷やさなければどんどん高温になっていくものなのだろうか?

壊れた炉の中の冷却を今はどのようにやっているのだろうか?

こうした疑問を発する方がいたのです。

 

かなり素朴な疑問のようですが、市民レベルで自信をもって答えられる人がそうはいないものだという事を実感する語り合いとなりました。

 

あまりにも地下水流入が多いため汚染水がたくさん出来てしまうという事で、地下水を建屋に入れないためにどうするかという方法をいくつか考えた末に、一番お金がかかると言われる凍土壁方式にしたし、なんだかそれも完全にうまく出来ていないようだと聞いたことがあるという意見。

 

原子炉はわざわざ地下を掘って立てているから、何かあったら地下水が入ってくるのは当たり前なのだという意見。

 

そういう地下水がちょうどいい按配に建屋に入ってくるから、それで冷却しているのではないか?という意見。

 

まさか、そんなあいまいな方法で冷却しているはずはないのではないかという意見。

 

地下水の流入を防いで、人為的な量の注水で冷却すれば、今よりずっと汚染水の量を減らせるはずだと思うという意見。

 

 

さて「燃料デブリ」と聞いてほとんどの人がパッと目に浮かぶのは、ロボットアームのようなもので「やっと触れることが出来ました」と大はしゃぎしたあの映像の中の、薄茶色でごつごつした岩みたいな、あるいは溶けて固まった鋳物のような物体を思いうかべるでしょうが、実は福島原発事故で出来たであろう燃料デブリなど、本当はどこにあるのか?も推定でしかなく、だから当然だれ一人見た事がないというのが真相のようです。


 

核燃料デブリが再び核分裂反応を始めて臨界に達するのかどうか?その事を明確に答えられる資料はなさそうです。勿論その危険性は絶対にないなどとは考えていないようです。

 

また本物のデブリが手に入っていないので、実験的に模擬デブリを作ってそれを使って(未だ)研究中というのが現段階ではないかと思います。


 情報の少ない市民には分かる筈もなく、お粗末な語り合いしか出来ないのも致し方ありませんでした。


燃料デブリの特性把握

https://www.jaea.go.jp/04/ntokai/fukushima/fukushima_01.html

 

福島第一原子力発電所の燃料デブリ取り出しにむけて

https://www.mri.co.jp/knowledge/column/20180424.html

 

燃料デブリの冷却状況の確認について

http://www.tepco.co.jp/decommission/information/newsrelease/reference/pdf/2018/2q/rf_20181108_4.pdf

 

福島第一原発2号機 デブリで極めて強い線量

https://www.nhk.or.jp/politics/articles/lastweek/14809.html

 

2019年10月2日『新聞読んで語ろう会』例会の報告(2)

 

 

前回の例会報告(1)での「トリチウム汚染水問題」に関する語り合いはさらに続きます。

 

西尾先生の「トリチウムがとても危険な放射性物質である」という内容をもう一度振り返ります。

 

「人間の身体は60%以上、みずみずしい子供のころであれば70%近くが水で出来ている。その水は水素と酸素(H2O)という事になるが、この水素がDNAの中で結合剤の役割をしている。その水素とトリチウムが簡単に融合してしまうから体内に入ったトリチウムは簡単には排出されない。残留して内部被ばくが始まる。そればかりではなく、トリチウムは放射性物質であるために常に安定化するために放射線を出し安定したヘリウムへと変化する。本来結合剤であった水素がヘリウムへと変わる。すなわちDNAそのものが変化する。そんな遺伝子を持った状態で人間が健康でいられるわけがない」

西尾先生の主張は概ねこんな内容だったと思います。

 

体内に取り込まれたトリチウムの半分がヘリウムに変化するのには12.3年(半減期)かかります。

DNAの中で変化が起きるのにはかなりの年数はかかるので、「即効的な影響が少ないという事は言えても将来必ず影響が出てくる」その事を西尾先生は医療現場で見続け、調査研究の結果をもとに主張されているのだと思います。

 

これ程悪質で、身体に悪影響を及ぼすと分かっているトリチウムを未だに「体に影響があるかどうかは証明されていない」などと言い逃れをするような原発推進派の学者はとても無責任だと思うという意見。

 

「悪影響があるかどうか分かっていないのだから、放流してもいい」という理屈にしてしまうのはどういう事なのだろうか?という意見。

これに対し「疑わしきは罰せず」みたいな理屈を、こんなところで使ってはダメでしょう?

 

稼働中の原発からはトリチウムが常に生成され、それが海洋に(危険ではないとして)放出されて来たけれど、その方法に問題はなかったという事にするためには、福島の事故後保管し続けた大量のトリチウム汚染水でさえも、それほど大げさに危険なものとして扱うのはやめた方が良いという政策判断があるのではないだろうか?

だから当初から海洋放出が最善策であると主張していて、ただ「風評被害」に気を使っているだけのようなそぶりを続けて来ている。トリチウム除去の技術が少しづつ現実化して来ているという報告が出て来ているのに、その実現を待たずに海洋放出に踏み切ろうとする態度は、トリチウム悪玉説を全面否定したい(すなわちこれまで行って来た、原発からのトリチウム海洋放出は間違っていなかった事を主張したい)表れではないだろうか?

 

 

さてこうした原発関連の話題が進み、原発が地球温暖化の防止に本当に役立つのか?という疑問が出ました。

稼働中の原発で、発電に直接かかわる作動の中では確かにCO2は出ないけれど、もともと原発建屋を作るとか、原子炉を作るとか、膨大な設備を作る段階ではまさに膨大なCO2が排出されている。燃料を運ぶ時もありとあらゆる作業、点検、修理などではCO2が排出されているのだから、地球温暖化にもそれなりの影響のあるシステムだろうという意見。

 

ここから、地球温暖化についての別の記事を題材にした語り合いへと移りました。

 

記事は朝日新聞系のWEBサイト『論座』からの記事2種。

 

一つは「(東京理科大学教授 渡辺正氏投稿)温暖化脅威論を粉砕するマーク・モラノの本(201907.04)、同じ執筆者が201602.16(当時はWEBRONZA)に出している「的外れの温暖化対策」という記事」

 

もう一つは、同じく『論座』から「(東北大学東北アジア研究センター/環境科学研究科教授 明日香壽川氏投稿)ゾンビのような温暖化懐疑論(上)(下)(201908.2324)」という記事。

 

前者は、地球温暖化を懸念する学者グループは、かなりウソのデーターを用いて脅威をアオリ、化石燃料を使わせないようにしようという政治的な力が働いている(莫大な研究費を使って役に立たない対策にを押し進めようとしている)のではないかとする論調。

 

一方後者は、この渡辺氏の記事に真っ向から反対意見を述べ、CO2による地球温暖化は間違いなく進んでいて、これに懐疑的な論理が明らかに誤っているという証明もすべて出来上がっていて、今さら疑う余地などないのにいまだに懐疑論をよみがえらせる渡辺氏を批判した記事。

 

 

私たち市民レベルでこうした記事を読み比べると、主張している事は真反対なのにどちらも正しいように見えてくるので厄介です。

 

語り合いではまず、原発の話の延長線の話で「原発の廃水温が高い事が原因で海水の温度が高くなるという事はないのだろうか?」という疑問が出ました。

「分からないけれど、海水温度が上昇する原因が火山の熱だなどという説明を言っているのを聞いたことがある」という話が出ました。

 

あとは、エルニーニョやラニーニャといった特殊な気象の現象で温海水が流れ込むこともあるような話」もあるという事ですという報告。

 

例えばセメントを作る時には石灰石を焦がして作っているけれど、その時にも膨大な熱量を海に流しているという話も出ました。(後日調べで分かった事:セメント製造過程で石灰石などの原料を1400~1500度くらいまで温度を上げなければならないようです)

 

この話から引き継いで、(原発を作るばかりではなく)あらゆる産業活動において膨大なエネルギーが使われているという意見が出ました。

 

そのエネルギーを有効活用できないだろうか?という意見に対し、すでに有効活用はしているとは思うけれど、例えば部屋の温度を下げる(エアコン)時には、その分の熱量は屋外に排出してヒートアイランド現象の原因になる等、人間が便利さを求める限りどんどんエネルギーは使われているという事になってしまっているのだと思うという意見。

 

そういうエネルギーの使い方をしてきた結果に対する警告を、若い人たちが今発し始めているという事でしょう?(未来のための金曜日運動)という意見。

 

しかしそういうエネルギー消費による熱量の放出が地球温暖化につながっているという話ではなく、CO2という温暖化を促進するガスの増加が原因だという事が問題になっているのだというお話です。

 

CO2が温暖化の原因だという事が証明されているわけではないのではないか?という意見。

 

しかし、明日香氏の記事の中では、CO2が原因なのは確定しているように書かれています。

 

温暖化ガスはほかにもあるという話も出ました。

 

以前はエアコンや冷蔵庫に使われていた冷媒R12は、オゾン層破壊の原因とされて禁止され、その代替えのフロンが開発された。それはオゾン層は破壊しなかったけれどCO21000倍以上の温室効果がある事が後に分かってまた問題になっているけれど、密封されたエアコンシステムから少しづつ漏れ出る事を想定すると、化石燃料で走る自動車が、走る度に排気するCO2の量に比べると、やはり主たる原因はCO2の方が圧倒的に大きいという事になるのではないかという意見。

 

さて、温室効果が最も大きいガスは?という話で、私連絡係(Y)の記憶から言わせて頂きましたが、「水蒸気こそ最大の温室効果ガスだ」というのを聞いたことがあるのですが皆さんはこの件についてご存知ないですか?と問いかけました。

 

残念ながらそのことを知る人がいなくて、(Y)としては自信がなくなってしまったのですが、仮にそうだとするとという前提で考えると、わずかの気温上昇でも大気中に含むことが出来る水蒸気の量はどんどん増えていくため、その水蒸気が原因でさらにまた温暖化が進むという悪い循環が懸念されるというお話をさせて頂きました

 

この件については、「水蒸気の温室効果」

http://www.cger.nies.go.jp/ja/library/qa/11/11-2/qa_11-2-j.html

 

 

その後、温暖化が進む中で「ホッキョクグマが生息できなくなっている」事についての語り合い。


「そういう話題がメディアで大々的に報じられたことがあったけれど、本当に生息数が減っているのかちゃんと調べているのだろうか?」という疑問の声。

 

また、北極圏の海氷面積の減少についての話も出ましたがその2件については

 

APF 海氷融解でホッキョクグマの獲物確保が困難に、カナダ環境省諮問機関」

https://www.afpbb.com/articles/-/3200396

JAXA 北極海の海氷面積が921日に2018年の最小値を記録」

https://www.eorc.jaxa.jp/earthview/2018/tp180925.html

 

ドイツで以前経験した説明で「木質燃料の火力発電所のCO2排出はゼロ」という理屈が納得できないという意見。

木が吸収したCO2の量が、燃焼させて出るCO2の量と同じになるからプラマイゼロというのなら、はるか昔にCO2を吸収した化石燃料を燃やしても同じ理屈にはならないのか?という意見です。

 

同じ事ではないと確信している方の意見がなかなか説得力がないと言うか、納得して頂ける説明にならなかったので


カーボンニュートラル

 


「バイオ燃料」



ついでに 

ドイツのエネルギー変革に関する動向調査 

https://www.env.go.jp/earth/report/h29-03/h28_ref01.pdf

 

 

最後に確認した事は、化石燃料は温暖化につながるから駄目だと言って、じゃあ原発に頼るという短絡的な発想をしないで、効率も良くなりコストも下がっている再生可能なエネルギーの方にシフトしようという機運は高まって来ているので、そっちの方に進むように皆で考えてゆく事が大事ですね、という事でこの話はそろそろ終わります。



10月2日『新聞読んで語ろう会』例会の報告(1)

 


 

今回の「語ろう会」は、まず前回からの持ち越した9月11日の北海道新聞《トリチウム汚染水 どこへ》という記事を題材にする事になりました。

 

この記事の紹介に入る前に、前回取り上げた「異端と言われたMMT理論」と「主流派と言われているケインズの経済理論」の関係についての補足的な語り合いを行いました。

 

「ケインズ経済理論」は、格差を広げる理論なのか?という疑問。

「ケインズ理論はむしろ格差を是正するが、その代わり比較的大きな政府を必要として財政を圧迫する傾向にある。財政を考えた結果『新自由主義』が台頭して来て、その結果極端な格差の広がりが始まった。

MMTは、こうした『新自由主義』の弊害に対抗する形で出て来たのではないだろうか?

 

日本の場合を見ると、確かに新自由主義的な極端な格差の広がりが続いているけれど、決して小さな政府ではない。

大企業にとっては大幅な優遇があるけれど、国民には増税と福祉の縮小が続き、財政も悪化し続けている。

大きな政府が、国民のためにではなく「お友達大企業」のために大きな予算を垂れ流している。

日本というのは、いまめちゃくちゃな経済国になっているんじゃないだろうか?

 

こうした語り合いをして、いよいよ今回の題材に入りました。

 

 

 

今回の《トリチウム汚染水 どこへ》という記事の内容は、福島原発事故後、増え続ける汚染水保管タンクが、いよいよ置き場が限られて来ているという事から、今後どのような方法を取るべきかで大きく2つの意見(方針)に分かれて来ているという事、その補足としての経緯や、除去しきれないトリチウムというものについての説明などが書かれています。

 

また2つの意見を代表してそれぞれ専門的な立場の方の考えが両論併記の形で出ています。

 

1つは茨城大学の放射線生物学教授の田内広さんの、どちらかと言うと政府や東電が従来からの方針だと主張している「海洋への放出(薄めて流すという考え)をする方法しかない」というもの。

 

もう1つは元東芝で原子炉設計をしていた技術者で原子力市民委員会委員の後藤政志さんで、「トリチウム汚染水の海洋への放出は当分行うべきではない」という考え。

 

こうした内容を題材に語り合いを始めました。

 

ここでもまたお断りしておきますが、この語り合いで話されている事は、あくまでも市民が(あえて言うならば、多少なりとも問題意識を待った市民が)それぞれの題材について知っているつもりでいる事、かなり突っ込んで調べ上げたつもりの事、明らかに誤解している事、苦手な分野でなかなか理解が出来ない初歩的な疑問から専門的な疑問などが率直に語られているものです。

そのために、会話の内容が常に正しいという事ではありませんが、(多少なりとも問題意識を持った)市民が語り合うという現場がどのようなものなのかを知って頂ければという趣旨でおります。

 

 

まず、何故「トリチウム汚染水」と言うのかというところで、いろいろな放射性物質を取り除く装置(アルプスなど)を通しても最後まで残ってしまうのがトリチウムだから「トリチウム汚染水」と言うのだというお話。

 

トリチウムとはどういうものなのか?という事でのしばしの語り合い。

 

トリチウムは、放射性物質の中でも放射線があまり強くないと言われている事。

 

どうしてトリチウムは除去できないのか?という疑問

 

これにに対して水と同じ状態なので水の中にあるトリチウムだけを選び出すことは不可能なのではないだろうかという意見。

 

学者によってはもともと水なのだからどうしようもないと言っていた人がいたという意見。

 

とは言うものの、最近ではトリチウムを取り除く研究も進んで来ているらしいという話。

 

トリチウムは、基本的に水と同じなのだからヒトの体内に入ってもすぐに排出されるんでしょう?という意見。

 

そもそもトリチウムの人体への影響(危険なのか?安全なのか?)はまだよく分かっていない、その段階で海洋排出は無理ではないだろうか?という意見。

 

特に福島の漁協は(壊滅的な風評被害が起きるから)絶対反対しているという意見。

 

札幌の国立がんセンターの西尾正道先生の話では、「トリチウムは体に入ると内部被ばくという状態になって、これがすごく体に良くない」と言っていたし、「風評被害ではなくて人体に実害が起きるとも言っていた」という意見。

 

ちまたでは「トリチウムが極めて弱いエネルギーしかもっていないし人体に有害だと分かってはいないのだから」という理由で海洋放出してもダイジョウブデス、などというような声がよく聞かれるようだけれど、西尾先生によれば「有害なのははっきりしている。証明されている」と言う。

そうやって有害だと分かっているのに、原発推進の人たちなのか、経産省の強大な力なのか、それを聞こえてないような振りをしているようなのだけれど、それはどうしてなの?という意見。

 

 

 

記事によれば「トリチウム以外の汚染物質は取り除かれているはずの処理水に、実際に調べるとまだ基準値を超すヨウ素やストロンチウムが残っている」とあるけれど、これが一番問題なのではないだろうか?という意見。

 

処理装置の「アルプス」は、しょっちゅう故障していて上手く除去できない事があると言っていた人もいた、という記憶の話。

 

こんな状態で海洋には当然排出できないのは当たり前だという意見。

 

海洋排出を検討すべきという意見についてどう考えるのかという話の中で、記事にかかれている半減期(トリチウムは12.3年。123年で千分の一以下になる)についての語り合いが始まりました。

 

半減期とは何?という疑問。新聞には放射能が半分になる時間と書いてあるが、分かるような分からないようなモヤモヤ感が漂う会話となりました。

 

排出されたトリチウムの量が半分だったのと同じことになる(本当は1000出たのだけれど、500出たという事になる)までに12.3年かかるという理解で良いのだろうか?

そして、123年経つと1以下しか出なかったのと同じ事になるという事なのか?

 

 

さて、だいたいの会話はこんなところでしたが、連絡係(Y)として今回取り上げた記事で疑問が残っていまして、その事を私見として書いておきたいと思います。

 

茨城大学の放射線生物学教授の田内広さんの言われている中で

 

「・・・千分の1になったからといって放射性物質がなくなるわけではない。仮に海洋放出する場合、薄めるために加える水が減るだけの話だ」

更に「ため続けても決してゼロにはならないので、最後はどこかに出さないといけない。状況の棚上げや判断の先送りが続くと世代が変わった時に「私たちは知らないよ」という人ばかりになる・・・・次世代にゆだねるのはあまりに無責任だ」と言われている。

 

ここのところには、とてもモヤモヤと引っかかるものが有るのです。

確かに半減期を繰り返して、半分の半分の半分になったとしても数学的に見て絶対にゼロにはならないから「なくなるわけではない、ゼロにはならない」と言うのは正しいのかも知れない。

しかし、例えば今1000個の(トリチウムの)粒子があったとして、それを何百倍に薄めたとしても、それを海に放出すれば1000個の粒子が海に入るという事ではないのか?

千分の1になるまで保管してから海に放出すれば、海に入る粒子は1個だけで済むのではないか?

この疑問、皆さんはどう考えますか?

 

そして高々百年後の人々が「私たちは知らないよ」という人たちばかりになる事を心配するのであれば、何千年も先送りにする核燃料廃棄物の保管の事はどうなるのだろうか?という事には心配はないのだろうかという気持ちになってしまうのです。

皆さんは、どのようにお考えになりますでしょうか?

 

 

 

環境中のトリチウム

http://www.ies.or.jp/publicity_j/mini/2007-04.pdf

 

環境水の中のトリチウム

http://www.kaiseiken.or.jp/study/lib/news99_02.pdf

 

近畿大学 汚染水からトリチウム水を取り除く技術を開発

https://www.u-presscenter.jp/2018/06/post-39661.html

 

 

2019年9月18日例会報告(3)

 

 

18日例会、2つ目に取り上げたのは、矢臼別で8月26日から9月23日までの日程で行われた「陸上自衛隊西部方面隊と米陸軍の日米共同訓練」について書かれた北海道新聞の記事2点です。


一つ目の記事は9月13日の《 道外陸自部隊の日米共同訓練 矢臼別で16日初実施 》


記事の内容は「総監部が熊本にある陸自が九州を中心に1985年から行っている日米共同訓練を今回初めて矢臼別に来て行う」というもの。

西部方面隊の役割(中国と向き合う地域で、脅威に対する)訓練の規模などとともに地元の不安(各方面や米軍の訓練が増えるのではないか)などが書かれています。

 

二つ目は9月17日の《 矢臼別 初の共同訓練   実射は霧で中止 》


こちらの記事では予定されていたロケット砲の実射訓練(10キロ先に18発)が霧で中止になった事、このロケット砲について、陸自のMLRSと米軍のHIMARSの説明(前者は射程数十キロで12発連射、後者は射程7~15キロ4.5秒おきに6発撃てる)。

ここでも地元民の危惧(日米共同訓練が頻繁に行われ、一体化が進んでいるのではないか)などが書かれています。

 

 

語り合いです


北海道新聞では、この共同訓練についてあまり積極的に取り上げていないような気がする。

月上旬までに自治体への説明が終えているという内容だが、913日までにこの共同訓練に関する記事はなかったと思う。数日後にロケット砲の実射訓練があるという時点まで記事として取り上げていないというのは、意図的なものではないだろうかという意見。

 

「週刊金曜日」では陸上自衛隊西部方面隊が沖縄の島々に拠点を置き、中国の南西諸島への進出に武力的なけん制を強めるのは、第二次大戦で沖縄に多大な犠牲者を出したことの反省も見られない、再び沖縄を犠牲にしようとしているという事をきちんと書いているが、道新ではそのあたりの事があいまいな記事で、中国の脅威に対処するための訓練であることばかりが強調されているような内容だと思うという意見。

 

軍事的な共同訓練であるため詳細を国民に知らせない、かつてもあった「日報隠ぺい・改ざん」等が当然あるものだという事がマスコミにも浸透してしまっているのではないだろうかという意見。

 

さすがに、軍事の事は何でもかんでも開示は出来ないのではないか?という意見。

 

開示してくれないからと言って、取材しない報道では政府の公報でしかないのではないか?という意見。

 

ここでもまた、ジャーナリストの腰砕けに対する不満が出てきました。

 

こんな事を言うと『甘い』とよく言われる事なんだけれど、という前提で、「いまの日本国憲法のもとでは、国民が主権者なのだから、たとえ外交であろうと防衛であろうと、国民に対して不開示にするという考えは、あり得ない事ではないでしょうか?」という意見。

 

さらに続けて、マスコミが政府に対して何かを追及をする時には「国民の知る権利」のために教えろと言い、国民の知る権利の代理人のようなふりをしているので、国はマスコミに情報を出したことで国民の知る権利に応えていると言い、それなのにマスコミは知り得た情報をすべて国民には知らせていない。

例えば政府発表のプレリリースというものが記者クラブに提示されるけれど、一般人の私が「そのプレリリースを私にも下さい」と言っても、「これは記者に渡すためのものだから、欲しければ記者に言ってください」と断られる。記者クラブに行って「私に下さい」と言っても「これは記者クラブに来たものだから見せるわけにはいかない」と断られる。

結局国民は主権者と言いながらこういう状態で、知る権利を行使できなくされている。

 

今回の矢臼別の訓練の記事も、結局国民が知りたいと思う記事を書くというよりも、政府の発表を待っているだけだったという事ではないだろうかという意見。

 

マスコミが腰砕けで頼りにならないというなら、やはり国会で議員が追及するしかないと思うという意見。

 

その通りだけれど、追及する議員が少なすぎるし、野党議員と言っても全員がこういう事に積極的だとも限らないので、国会に期待するのも今はなかなか難しい状況にあるような気がするという意見。

 

北海道の野党議員も、北海道各地にいる自衛隊員やその家族とはある程度仲良くしなけれならないという気持ちもあり、地域に入る自衛隊がらみの経済効果や補助金などがあるから、基地反対をあからさまには言えなくなっているのではないかという意見。

 

自衛隊の基地にしろ、原発にしろ、幌延の研究施設にしろ、皆経済的に恩恵をもたらすという事で進出して、なくなるとその地方が成り立たなくしていくような政策(札束でほっぺた叩くような政策)がずっと続いているような気がするという意見。

 

そもそも、米軍とこういう共同訓練をするという事が、我が国の憲法で許されているのだろうか?という問い。

 

日米共同訓練というのは安倍政権の安保法制以前からもやられていたのだっただろうか?という問い。

 

話は、記事の方に戻りましたが、記事を見ると「16日初実施」という大きな見出しから、訓練が16日から始まるような印象を持ったけれど、中身を見るとすでに8月26日から始まっているというように、見出しの付け方にも違和感を感じるという意見。

 

8月26日以前の記事に、この訓練が行われるというようなものは見当たらなかったという意見に対して、その時期のテレビでは一度放送されていて、鈴木知事が「事故なくやってください」というようなコメントを出していたという報告。ただその放送が矢臼別の事だったかどうかははっきり覚えていないという事。

 

環太平洋合同演習というような事で、相当前から自衛隊も出ていたような気がするという意見。(合同演習には1980年から海上自衛隊が参加し始めているようです)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E5%90%88%E5%90%8C%E6%BC%94%E7%BF%92

 

こういう訓練や合同演習も含め、有事の時にも自衛隊の総司令官はアメリカにあるのではないかという意見。

 

イラク戦争で「サマワ」に行った自衛隊も、米軍の指揮下だったのか?という問いに、国連のPKOの活動の一環だったはずで、米軍の下にいたのではなかったと思うという意見。

 

日本の管制権指揮権はすべて米軍が持っているはずだという話。

 

日本が独立的にアメリカの指揮下に入らない軍隊を持つという事は、アメリカは嫌がっているのではないか?かつて「パールハーバー」を攻撃した日本軍の事はいまだに忘れていないのではないだろうか?

 

 

軍を派遣している事で金もかかるし、自国の兵士を危険にさらしたくないという理由でアメリカは日本からも韓国からも出て行きたいと思っているという意見。


それはトランプになってからの話のような気がするけれど・・・


イヤイヤ、アメリカはもっと前から出て行きたがっている。たとえば『グアム移転の話』もあった。アメリカは日本がどうなろうとそんなに気にしていないけれど、日本がアメリカに出て行かないでほしいと言っている・・・


その出て行かないでほしいと言っているのはどういう人だという事でしょうか?

 

新外交イニシアティブという日本のシンクタンクの講演会で聴いた感じでそういう感じがした。

 

というところで時間切れ、当ブログも次回の例会へと続きます。

 

 

日米合同委員会

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E5%90%88%E5%90%8C%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A

 

合同委員会の具体例

https://www.mod.go.jp/j/press/news/2019/09/27a.html

 

米軍と日本の管制業務関連

https://toyokeizai.net/articles/-/273772

 

新外交イニシアティブ

http://www.nd-initiative.org/about/

2019年9月18日例会の報告(2)

 



前の記事のつづきです。

MMTの話から、語り合いは続きました。

 

現在安倍政権が日銀の黒田総裁とやっている経済政策は、国債をどんどん発行し最終的にそれを日銀が買い取り、その分のお金を市場にまわして景気回復しようとしたという事だと思うが、それとMMTというのは(日本をモデルにしたというだけに)何にも変わりがないのではないか?という意見。(アベノミクスでは国民のほとんどが恩恵を受けていない、失敗した経済政策と言えるのだから、それと同じようなものであればMMTなど信じられないという意味を込めての発言)

 

これに対して、アベノミクスでは、市場にまわすというお金というのは基本的に大企業に行くようにしていた。

大企業が潤沢な資金を得て設備投資などを行い業績を上げ景気が良くなり、ゆくゆくは賃金が上がる(いわゆるトリクルダウンが起きる)という事で消費も伸びるという筋書きだったのではないだろうか?現実には潤沢な資金は内部留保や投資資金にまわされて、賃金が上がったのはほんの一部、実質賃金はむしろ下がったと聞いているという意見。

 

確かに安倍政権がやっている経済政策は、企業それもほぼ大企業にばかり資金が回り、一般市民にまではお金は回ってこなかった。相当な財政悪化が進んだ割には、格差が広がっただけで、成果が上がったなどとはとても言えない失敗政策だったと思うという意見。

 

もう一度確認するけれど、実際MMTと安倍政権がやっている事のどこが違うのか?

 

これに対して、MMTは国債発行をして得られるお金は、「直接消費者に渡る仕組み」を考えているのではないだろうか?ダイレクトに消費を伸ばすという考え方だと思う(確かアメリカ民主党から大統領候補に立候補しているサンダースはそう言っている)

そうであればアベノミクスとは考え方がまるで逆、別物だと言えるのではないだろうか?という意見。

 

ところで、消費者にお金が直接渡る仕組みと言えば『ベイシックインカム』というのがそれに当たるのではないだろうか?という意見。

 

ここからしばしそれぞれの持っている記憶をもとに『ベイシックインカム』とはどういうものか?という意見交換を行いました。

 

小池百合子都知事が、選挙の時に『ベイシックインカム』について話していて、一人一律7万円を渡すというような事だったけれど、ベイシックインカムをする事で、年金や保険などの福祉は全部なくするという事だったような気がする。

 

7万円ならとてもじゃないけれど、生きていけないからやめた方が良いという意見。

 

その福祉を止めないでベイシックインカムをするってことは出来ないの?という意見

 

 

ベイシックインカムがどういうものなのか?MMTとはどういうものでベイシックインカムとはどういう関連性が期待できるのか?もう少し基礎的な知識を持ってから語り合う必要があるね、というところで「後日調べ項目」へという事としました。

 

ここから消費税についての意見が出ました。

 

「れいわ新撰組」は消費税をなくすと言っている。

基本的には消費税を作る前の税制に戻すことで財源は出来るという考えのようだという意見。

 

共産党は、消費税を下げる財源に、高所得者の税を引き上げたり軍事費を減らすと言っている、という意見。

 

結局国民が反対していても消費税が上がってしまうけれど、これをどうする事も出来ないのか?という意見

 

国民が消費税を上げたくないのなら、誰が上げようとしているのかなどをちゃんと勉強しなければダメで、消費税を上げない、あるいは消費税をなくするという議員を選挙で選ぶ以外には、消費税が上がるのを止めることは出来ないという意見。

 

ちゃんと勉強するという事には、「何故上げようとするのかという理由」、「何故上げてはいけないのかという理由」も含まれるけれど、マスコミなどは(消費税を)上げるのが当然であるかのような理屈(政府の言いなりの理屈)ばかりを国民に押し付けるような報道が多く、それで消費税は上げないとだめだみたいに思う国民も増えてきているような気がするという意見。

 

結局マスコミの報道に操られるような投票をする人が多くなれば、選挙をやってもなかなか消費税を下げたりなくしたりすることは難しいような気がするという意見。

 

マスコミも抱き込んで政府の主張ばかりが押し付けられている現状で、どうやって国民が冷静に判断する機会を得られるようにするのか?

また庶民として「消費税を上げないでほしい」という気持ちを皆で共有する手立てや、それを政策に反映してもらうためにどうすれば良いのか?という問いかけ。


現実に起きた事としては、民主党政権の時に『高等学校無償化』など、良い政策もあったし、景気の対策も本当は今のアベノミクスの前の方が着実に良くなって来ていたという話もある。

ところが自民党政権になって朝鮮学校の無償化除外など差別的政策に変更さたりと、安倍政権になって良い事など一つもなかったと言っていいほどなのに、国民のほとんどは「あの悪夢のような時代」とせせら笑うように何度も口にする安倍首相の言葉を信じる人が多くなる要因には、マスコミの報道に大きな原因があるし、民主党時期の官僚のサボタージュで政策がすすめられなかったという事が国民にはあまり伝えられなかったのもいまだに尾を引いている。

国民がよほどしっかり勉強して新たな政策を望んでも、こういう障害を乗り越えられる力を付けなければ同じ轍を踏むことも十分にあるのではないかという意見。


 

国民がいかに正し情報を得るか、ここに大きな課題が残る語り合いでした。


新自由主義Vsケインズ経済理論 

file:///C:/Users/user/Desktop/co82_07%20(1).pdf


ベーシックインカム

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%A0


フィンランド政府が2年間ベーシックインカム給付をして分かったこと

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64706





 

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2019年9月18日例会の報告(1)




 

ここで一つお断りをしておきます。

 

このブログに出てくる文言は、庶民・一般市民が語り合っている内容であって、必ずしも「正しい事」を発言しているというものではありません。

 

社会問題などをテーマに庶民が語り合っている中(更には口に出さず腹の中に思いつのっているもの)には、「鋭い感覚」や「深い考察」もあれば「思い込み」「勘違い」や「誤解に基づいた偏見」もあるというのが現実ではないかと思います。

しかし巷における一般市民の中では(何かに操られているかのように沸き上がる)こうした思い(あるいは思い違い)が積もり積もって世論を形成しているという状況もあるのだと思います。

 

私たちの語り合いでは、こうした勘違いや思い込みを語り合いの中から解きほぐすということも一つの目的になってきているように感じます。

このブログからそういう部分も読み取って頂ければと思います。

 

 

 

さて、9月18日の例会、最初に題材にしたのは前回からの持ち越し記事。9月1日の北海道新聞「異聞風聞」、《主流派は何をしてきた》という記事です。

 

記事の内容は、現在異端とされている『MMT(現代貨幣理論or現代金融理論)』と言われる経済理論について取り上げています。

 

今回の記事ばかりではなく、私たち『新聞読んで語ろう会』でもこの北海道新聞「異聞風聞」の記事を持ち込まれる参加者が多いのですが、「異聞風聞」と言うだけに文章仕立ての切り口に「ヒトヒネリ」あるコーナーだと感じています。

文章作家の中にはこうした「ヒトヒネリ、フタヒネリ」が常套手段となっている人もいるように感じますが、新聞記事としては「たまにあるくらいでちょうどいいアンバイ」なのかも知れません。

思わぬ話から題材を切り込んでいく文章に「なーるほど!」とか「そのとおり!」と思わず唸ってしまうような仕立てに、ある種のそう快感を覚える読者が多いのだろうと思います。

 

今回の記事の仕立ては、中世ヨーロッパで宗教的呪縛の中「主流派」と言うのか(もっと突き詰めた「絶対理論」と言うべきなのか)、正しいとされていた『天動説』に対して『地動説』は異端とされていたという切り口から、『国家財政の健全化』が現代の主流派の経済学(ケインズ経済理論)だったのに対し、最近『MMT』という異端児が現れ急浮上して来たとして読者に問題提起しています。

 

宇宙論の現実では異端とされていた『地動説』の方が正しかったのだけれど、経済論では今異端とされている『MMT』ははたして正しいのか間違っているのか、そして『MMT』理論が出てくる背景には主流派の経済学に任せて来た現代社会の実態は格差の増大ばかりが広がって行き、「いったい主流は何をしてきたんだ」という責任追及で締めくくられている記事です。

 

まず、記事持ち込みをした人から『MMT』についての簡単な説明がありました。

 

アメリカ民主党の大統領立候補者の一人バーニー・サンダースの政策顧問をしているケルトンという経済学者が提唱していて、サンダース支持者の間ではMMTを支持する人が増えているという事。

 

国債発行を増やしても(一定条件があれば)破たんは起きないから国家財政赤字などを気にせず国債発行をして、そのお金を福祉などにつぎ込んで経済を活性化した方が良いという考え方であるという事。

 

この理論の実証例として(ケルトン氏は)日本の財政状態を例に上げているという事。

 

少し前の小泉政権時代に500兆円程度の財政赤字だったものが、今は1000兆円以上に膨らんでしまっているにもかかわらず、金利の上昇もせず破たんもしていない日本の実態がケルトン氏の理論上の裏付けとなっているという事。

 

日本では「れいわ新撰組」の山本太郎氏が、MMTを活用出来るとしているけれど、全く不安がないとも言えず、何かあった時(一番懸念されるのはハイパーインフレ)には、(MMTを)止めれば良いと言っている、という事。

 

主流派(経済)というのは財政の健全化を前提にしていて、主にケインズの経済理論「ニューディール政策の延長上にある理論」だという事。

 

(現在の日本の財政出動から見れば)もっと金利が上がってもいいはずなのにむしろ下がっているという事態が起きるのは、従来の主流派的な経済理論では計り知れない事が起きているのではないかと思うという意見。

以上の記事持ち込み者からの説明の後、語り合いが始まりました。

 

「れいわ新撰組」山本太郎氏が先の参院選の演説の時には、まだMMTに対しては懐疑的な言い方だったような気がするけれど、低所得者層の購買力を高める(景気を良くする)ためには、国債発行などしてでもお金を直接低所得者層に行き届かせるようにするというような事を言っていたような気がするけれど、そういうやり方とMMTとはやっぱり違いが有るのだろうかという意見。(根本的には、消費を落ち込ませる消費税はなくすべきだというのが、柱になっているようです)

 

どちらにしても、国が借金を増やして行くと、いずれ「ハイパーインフレ」になる危険性がある、という意見。

 

「ハイパーインフレ」とは何ですか?

に対して「貨幣価値がどんどん下がって、イメージとしては、昨日100円で買えたものが、今日は1000円に、明日はまた何倍にもなってしまい、小さな買い物をするのにも分厚い札束持って行くような事でしょう」「そうそう」「超インフレって事ですね」という会話。

 

「国が財政破たんする」とか「国が借金を返す」とかいうのは、その相手っていったい誰なのでしょうか?という疑問。

 

日本は外国には借金はほとんどないから、ギリシャのようにはならないっていう事ですという意見。

 

日本は中国を抜いて「米国国債」を一番持っている国だって聞いたことがあるというお話。

 

「持ちつ、持たれつ」という事で、日本だって外国に借金あるんじゃない?

そもそも日本の国債って誰が買っているの?という問い。

 

国債は日銀が直接国から購入は出来ないので、一旦は一般の銀行が買うけれど、もともと買いたくもない国際なのは分かっている事なので、すぐにそれを日銀が買い取る仕組みになっていて、銀行はその(日銀に買い取ってもらった)お金を融資にまわす事で市場にお金が回るという話だったと思う。だから、日本の国債は結局日銀が持っているものが多く、その他もあわせて国内での借金だという事で、MMTが成立する条件としては大事な要件の一つだったと思うという意見。

 

とは言っても銀行は金利が安いから本業では全然もうからないらしいので、どんどん市場にお金を回しているわけではない、記事にもあるようになかなか銀行はお金を貸してくれないというお話。

 

銀行は、直接融資はしてくれないけれど高い利息や手数料を取るカードローン会社などを経由してお金を出して名目以上の利息にあたる利益を上げているのではないだろうか?

 

振込手数料とか両替手数料とか、土日や遅い時間のATMの手数料は、金利に換算するととんでもない高利になるという意見。

 

経済学はやっぱり難しい。そもそも近代経済の主流派と言われるケインズの理論もよく分かっていないという意見。

これに対し、(ある程度なのかあるいはかなりなのかが私にはよく分かりませんが)近代経済理論に詳しい「記事の持ち込み者」からの、しばし『ケインズの所得再配分理論』の説明がありました。

 

さて、今回の例会はMMTの話から、身の回りのお金の話とか今回消費税増税に伴うキャッシュレス化の話、さらに、MMTの効果を出すのにベイシックインカムというのはどう?・・・・・など、いろいろなお話への広がりが続きましたが、その語り合いは(時間があれば)次回(2)にて報告の予定です。

 

関連サイト(語り合いの内容だけでは物足りない方や、もうちょっと何かないの?という方はいろいろサイトを調べてみてください。例えば以下のようなサイトもあります)

 

MMTとは

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%B2%A8%E5%B9%A3%E7%90%86%E8%AB%96


異端の理論「MMT」はどこまで信用できるのか

https://www.canon-igs.org/column/macroeconomics/20190610_5794.html


ケインズの経済思想

https://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2013/pdf/no11_02.pdf


ケインズ派の反撃

https://cruel.org/econthought/essays/keynes/counterattack.html


 

 

ここからは、連絡係(Y)が、例会では思いつけず、語り合いに持ち込めなかったことを書きますが、皆さまはどのように思われますでしょうか?

 

今回の語り合いの中で、「MMTは日本の財政をモデルに考えられた理論」という話が出ました。

という事は、実はもう日本の経済政策はMMTに沿ったものと言えるのでしょうか?(日本の借金の額は、破たんした時のギリシャの比ではないほど膨大な額に膨れ上がっているのにまだ破たんしていないのですから)

 

だから、確かに財政から見ればMMT的なのかも知れないけれど、残念ながら具体的政策(アベノミクス)の方は全然マト外れだったという事でしょうか?(だって、ここまで国が借金を増やしてお金をジャブジャブにしても、ほとんどの庶民には少しも景況感は出てこなかったという負の実績しか残っていないようなので)

 

 

それともう一つ、今回取り上げた記事からは「主流派=ケインズの経済理論」というような話で進んでいたのですが、今実際の主流派というのは本当は「新自由主義と言われるようなもの、あるいは新古典派経済というもの」にすでに置き換わってしまっているのではないだろうか?という疑問が出てきます。

今回取り上げた記事「異聞風聞」にはこう書かれています。

 

― MMTを異端として排除すれば済む話ではない。なぜこうした理論が一定の支持を得ているかと言うと、主流派の経済理論が格差の増大を招き、多くの人びとを不幸にしてきたからに他ならない。

 始まりは1980年代、英サッチャー政権が導入した新自由主義の政策だ。「小さな政府」を志向し、国有企業民営化、規制緩和、法人税減税などを進め、福祉には大なたを振るった。・・・・

 

 

この記事を読むと、主流派と新自由主義との関連が何だかよく分からなくなってしまう。

新自由主義が主流派だという事であれば、今の異常なほどの格差拡大が進んで来たという状況はとても納得がいく話なのだが。

 

記事を見るとなんだかケインズの理論が破たんして来て格差が拡大したようにも読めそうだ。

 

しかしそこに異端と言われるMMTが出てきているという説明は、実は新自由主義者たちの陰謀なのではないだろうか?と疑いたくなってしまう。

MMTというのは、本当はケインズの経済理論が新自由主義に対抗するための『劇薬』的な発想から生まれたのではないだろうか?

素人の私としては、こういった疑問が沸き上がって来るのですがいかがなものでしょうか。

 

皆さまの頭の中の整理はついていますか?

 

 

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9月4日例会報告(3)




9月4日の例会、3番目に題材にした記事は、当日持ち込みでしたが記事自体は7月5日と少し前のものでした。

 

北海道新聞 7月5日21面(わかる)より

≪SDGs(エスディージーズ)がわかる 富の偏り 深刻な格差生む≫という記事です。   

            *(SDGs=持続可能な開発目標)

 

記事の内容は、SDGsの17目標を紹介し、その第1目標である『貧困をなくそう』に焦点をあてたもの。(具体的には2030年までに極度の貧困状態にある人を0にすることを目標にする)

 

その中でも特に子供の貧困を中心に、世界の貧困撲滅目標やその推移などが書かれています。

 

グラフや比喩的に左側に26人の富裕層の資産、右側に38億人の貧困者で資産がつりあっている天秤の絵を示しながら、富の偏在が原因で貧困層がなかなか減らないことを説明しています。

 

さらに、「貧困層は努力しないからであって、貧困であることは自己責任だ」という風潮に対し、現状では明らかに貧困の連鎖が起きているその貧困家庭に生まれた子供にまで自己責任の理論を当てはめる無責任さを批判しています。

 

 

語り合いで最初に取り上げられたのは「自己責任」についてでした。

 

イラク戦争で日本人が捕まってしまった時に、解放され帰国した人に対し「自己責任」という言葉で責任追及する風潮が「自己責任論」の最初だったような気がするという意見。

 

それ以降「自己責任を追及される」のは、国の方針や意向に従わない傾向の人に対して多く使われているような気がするという意見。

 

外国では、自国の人間の命を最優先にするのに、日本は勝手に行ったのだからという理由で「救わなければならない自国の人間」から外してしまう、国家は自国民を守るためにあるという発想がない国のようだという意見。

 

等々、自己責任論に嫌悪や批判の声が延々と続きました。

 

その後、「よど号ハイジャック事件」の時は、乗客乗員の命を守るための特例の対応があった事。(佐藤栄作内閣時代)

 

朝鮮戦争時代に、米軍の一員(炊事班)として参加していたしていた人がいたようだという話。

 

東南アジアの米軍基地で、アメリカ国籍を得る目的で現地の人が米軍に志願兵として入隊し、一定期間の兵役を経るという話があったように記憶しているというお話。

 

話がどんどん移っていきましたが、再びSDGsの話に立ち戻り、「持続可能な開発」とはどいう事かについてしばし語り合いました。

 

そこで憶測として語られた事ですが、今現在のごく少数の莫大な資産を築く人が出るという産業の構造は持続可能ではないという認識から、新たに考えられた開発目標なので、現時点で富をむさぼっている人にとってはあまり積極的にはならない可能性もあるし、そういう金持ちは経済的な力は非常に強いのだから反対されるとそれを打ち破るのは容易なことではないのではないか。大多数を占める貧困側にいるに人々が上手にこのSDGsを進めていく意思を持たなければ実現するのはなかなか難しいような気がする、という若干ネガティブな意見も出ました。

 

https://imacocollabo.or.jp/about-sdgs/

 

題材の話から、あっちへ行ったりこっちへ来たりの語り合い。

 

また次回の例会へと移ります。

 

次回例会は、明日9月18日(水)18:30より、札幌エルプラザ2階会議コーナーにて行います。

 

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連絡係  

Author:連絡係  
『新聞読んで語ろう会』は新聞、雑誌、ネット記事、書籍など、気になるものを持ち寄り、市民目線で語り合う会です。

普通の市民が、生活のこと、政治のこと、社会のことを、あまり生真面目になり過ぎずに楽しく語り合いながら勉強?しています。

このブログを通して、会で見たこと聞いたこと感じたことなどを、連絡係の視点で皆さんにお伝えしようと思います。

連絡先: kataroukai123@yahoo.co.jp

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